『環と周』からの『からくりからくさ』
あなたは運命を信じますか?
身も蓋もないんですが、私は信じてません。
誰かを好きになっても、「これは、運命の出会いだ」とか思ったことはありません。
すべて、自分の行動の結果。さもなくば偶然、と考えます。
ただし、運命を信じないのは、時間が過去から未来へ流れるという前提において、の話かもしれません。仲良しの友人カップルに会うと、ああこの人にはこの人しかいないなあ、出会うべくして出会ったのかなあ、なんて思っちゃうこともあります。
そのたび「いやいや、違うな。出会ってからの年月の中で、お互いに影響を及ぼし合った『結果』を見てるんだよな」と自分を納得させているのですが、「現在」から「過去」を振り返った場合、そこに運命らしきものを感じ取る、というのはあることになりますね。
さらに、私には「過去」と「現在」としかわからないわけで、それも、自分を取り巻く小さな世界の、私から見える部分しか見えていないわけです。でもその外側にはもっとたくさんの人がいて、もっともっと大きな世界があり、もっともっともっと壮大な時の流れがある。そう考えると、「運命」って信じるとか信じないとかじゃなく、私の意識の外にあるんじゃないのか……?
『環と周』はまさに「運命の二人」のお話なんですが、最後までそう感じさせないのが、この物語のすごいところだと思っています。
連作形式で、大正時代の女学生、太平洋戦争の復員兵、1970年代の女性と幼児……と、さまざまな「環」と「周」の邂逅が描かれるのですが、よしながふみさんのストーリーテリングが素晴らしすぎて、それぞれのお話にちゃんと独立した重みがあるので、なかなか「ひとつながりのお話」とは思えない。それが「江戸時代編」で、バラバラだった水滴が一気につながるような回収を見せ、単行本のエピローグで、ちょっと異質に見えた「現代編」も加わり、みごとな円環を描いてみせる。はあ~~!とため息が出るようなラストです。
つい最近出た『きのう何食べた?』の23巻で、基本的にミニマルな人間関係しか描写されてこなかったシロさんとケンジが、長い時間をかけて友情を育んできた人たちが一堂に会する(または、会さない。そこが尊重されたのも素敵)のを目の当たりにしたわけですが、そういう「非日常」においてしか確認できない「自分の人生のかたち」ってあるんですよね。
自分の人生の輪郭は、自分には見えない。でも、自分を見ていてくれる誰かの目を通して、それが垣間見えることがある。
そんな人生たちを、インターネット上のマップを指先でつまんで広範囲を見るように、どんどん「引いて」覗いていくことができたら、『環と周』みたいな物語が見えてくるのかもしれません。
誰かと誰かのお話を愛おしみながら読んでいるうちに、それが壮大な「運命」の話だったことに気づいた体験がもう一つあります。梨木香歩さんの『からくりからくさ』です。
人形と話ができる蓉子、留学生のマーガレット、美大生の与希子と紀久。「手仕事」でつながった女の子たちが、蓉子の祖母の家だった古い日本家屋で同居生活を始めるところから、このお話は始まります。
庭や野山の植物で糸を染め、DIYした織り機で布を織り、網戸を買うために庭の野草をお料理したり。
『西の魔女が死んだ』といい、この頃の梨木さんのお話は「ていねいな暮らし系」というざっくりとしたイメージで紹介されてしまうことが多くて、私も女性雑誌か何かのそういう感じの書評にだまされてしまったのですが、読み進めるうちにあれ?となっていき、しまいには電車の中でのけぞる羽目に……
と、とんだセックス&バイオレンスじゃねえか!!
しかし、セックス&バイオレンスというのも「ていねいな暮らし」と同じくらいこのお話の一部を拡大した表現でしかなくて、このお話には本当にいろいろな要素が詰まっています。女性と男性それぞれの生きづらさ、自分という存在への疑問、愛と執着、理想と現実。 生と死、伝統と変化……自分を取り巻く問題と向き合おうと思ったら、私達は何度も、血を流すような思いをしなくてはなりません。
でも、地の底を這うような苦しみも少し引いた視点で見たら、美しい唐草模様のほんの一部なのかもしれない。
この本には若い頃に出会って、まるで自分がこれから出会うしんどいことをすべて予告してるような本だと思ったし、実際しんどいことに出会った時に何度も助けられたけれど(特に紀久さんが会議でオッサンたちと渡り合うとこは圧巻だからな!あの場面が役立たない女子はこの世にいないと思うぞ!)、やっぱり全体像として思い出すのは、女の子4人の連綿と繰り返される楽しいおしゃべりだったり、心が落ち着くような機の音だったり、お味噌汁に浮かべた蓬やテーブルに飾られたクリスマス・ローズだったりするんです。
『環と周』のラストが単行本の描き下ろしで補完されたように、『からくりからくさ』も前日譚の『りかさん』を読むと「広図」が見えてくるのでそちらもお忘れなく!
はたして「運命」を生きているのかどうか、自分自身ではわからないまま、私達は一生を終えるのだと思います。
でも、私達を取り巻くいくつもの物語から、「運命」を感じ取ることができる。特に本を読んでいると、とびきりの「運命」に出会うことができます。
それが錯覚だとしても、なんと幸せな錯覚なのでしょうか。
誰かの描く物語を素晴らしいと思う時、私は幸せです。
そして、どうせなら、「私は幸せだ」という錯覚を抱きながら死にたいなあ、と願っていたりもするのです。
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