頁と頁の間
ぴくり、とユルルモンの耳が揺れる。流れていく空気の中に、別の音が混じっていた気がしたのだ。
それを追いかけるようと忙しなく耳を動かしながら、状況を整理する。
本の中の世界で、「お守り」に籠められていた転送魔法を発動させたのはほんの少し前。魔法が作り出した光の繭に包まれてからしばらくして、暗がりに差し込んできた日差しのような強い光が視界に溢れた。
耐えきれずに思わず目を閉じた次の瞬間、ぐらりと足元が揺れ、宙に浮いたような頼りない感覚に襲われた。強い風が吹き荒ぶような音が、膜を通しているかのように遠くでひっきりなしに鳴り響いている。
混乱しそうになるのを必死で堪えながら、この魔法を教えられた時のことを思い出す。
――中に入ったら、出来るだけ力を抜いて、動かずに。流れに身を任せておけば、なんとかなるっしょ!
後は根性、と屈託なく笑う少女の顔が浮かんだ。その無責任さに思わず顔をしかめたものの、彼女の言に従って、ユルルモンは少し深く呼吸すると、手足の力を抜いた。次第に宙ぶらりんだった感覚が薄れて、代わりに吹き渡る風と一体化したような心地良さが満ちてくる。
瞼の血液が透けて視界が赤いことを考えると、相変わらず周囲には光が眩しく輝いているのだろう。目を開ける気には全くならないが、少しだけ移動を楽しむ余裕が生まれた。
今、自分がどこにいるのかは分からない。それでも自分が飛んでいるのだということは理解出来た。風の音が変わらず聞こえているからだ。
その音は遠く、周囲は全く凪いでいるのに、時々さわりと毛並みを柔らかく揺らす一陣の風が迷い込む。撫でられる感触がくすぐったく、面白い。ふっと、ユルルモンの口元に子供のように無邪気な微笑みが浮かんだ。
空を飛ぶというのはこんなにも楽しいものなのだろうか。この魔法を編み出した彼女は、いつもこの感覚を味わっているのだろうか。そう考えると、少女が羨ましく、空を飛ぶ魔法を使うことの出来ない我が身がほんの少しだけ、悲しいような気さえした。
実際に空を飛んでいた時間はそれほど長くはなかった。ある一瞬から吹きすさぶ風の音が少しだけ弱まったのだ。
代わりに、風の向こう、更に遠い場所からノイズのような音が微かに聞こえた気がして、ユルルモンは耳をそばだてた。
どうやら気のせいではないらしい。ざざ……という音は次第に大きく、間隔を狭めながら風の向こうで鳴っている。同時に、ねっとりとした慣れない匂いが鼻についた。
それが海であることに気が付くよりも速く、とん、と体が浮き上がる感覚がした。脚が下になり、次に内腑が浮き上がる。
――降りている。
そう思う間もなく、足先が地面に触れる。
「っで!?」
同時に、ごっ、と膝の裏に固いものが当たる感触がした。バランスを取ることが出来ず、仰け反ったままどすんと尻餅をつく。思ったよりも地面が近く、衝撃はそれほど大きくなかったが、それでもびりびりとした感覚が疼く。天を仰いだままの姿勢で彼は顔をしかめた。更に視界に飛び込んできた星々が、目を開いたからなのか火花が散ったからなのか、判断に困らせる。反射的に仕舞い込んだ尻尾が無事であることくらいしか喜ぶべきことが見つからなかった。
それでも、打ちつけた尻の辺りを撫でながら辺りを眺めてみると、周囲の様子が飲み込めてくる。目の前を横切る見覚えのある異国の街道。ここから外に向かって行く馬車を通すため、幅は大きく取られており、道を挟んだ向こう側は少し小さく見えた。関所が近い街外れであるせいか、周囲に目立った建物は無く、旅人の為に開かれたいくつかの商家と、それらに挟まれるように宿屋がぽつぽつと街灯の中に姿を浮かばせている。
自分が座り込んでいるのが、そのうちの一つの前に設置されているベンチの座面だと気が付くのにそれほど時間はかからなかった。背後では打ち寄せる波の音がずっと響いている。海が近いのだろう。時折潮の薫りを孕んだ風が鼻先をかすめていく。
ユルルモンは確かめるように首を巡らせた。頭上に、きいきいと軋む音を立てながら、板切れが風に揺られている。板切れには真ん中に堂々と、海と入道雲がデフォルメされたイラストが描かれており、その右下には宿屋であることを示すマークがちょこんと書かれていた。上には文字が躍っている。
見覚えがある看板だった。
書かれている内容を知ろうと、目を凝らす。周囲が暗い上に、自分が使っている言葉と似ていて微妙に異なるその文字を判読するのには、時間がかかった。
看板には「凪いだ海の宿」と間違いなく記されている。ユルルモンの中で、推測が確信へと変わった。
「……ようこそ、嵐の前の静けさの中へ」
看板を見上げたまま、ぽつんとユルルモンが呟く。それは、以前この宿に来た時に出迎えた魔法使いの少女が投げかけてきた言葉だった。
元の世界に戻ってきたことの実感がじわじわと湧き上がり、ユルルモンは感慨深げにぱたぱたとはためく看板をしばらくの間眺めていた。
やがて視線を自分に移すと、欠けているものが無いか所持品を確かめる。皮袋の中に収められた細工道具、路銀。得物である槍は、今はその穂先にカバーがかけられている。それらに傷は特に増えておらず、本の世界に持ち込んだままの姿をしていた。次に、土産物の入った袋を確かめようと手に取り、そのまま彼は首を傾げた。
戻る前、確かに自家製の兎肉ハムを入れたことも、ハムが兎一羽分あったせいで袋が大きく丸く膨らみ、それを喜ぶであろう最愛のヒトの姿を想像して、再会を楽しみにしたのもユルルモンは覚えていた。
が、今、彼の目の前にある袋はぺたんと皮と皮が殆どくっつきあっており、何度見ても大きな何かが入っているようには見えない。触れると、かさかさという乾いた音が聞こえた。
「……こうなるのか……」
袋の口を開け、中身を検めたユルルモンの口から嘆息が漏れる。気落ちした表情で袋から取り出したのは、確かに彼が作った通りの、身が引き締まってほんのり柔らかそうなハムで間違いなかった。但し一枚の紙に描かれていた絵である、という点を除けば、であるが。
海風に吹かれてばたばたと揺れるそれを胡乱な目で見ながら、ユルルモンは再度溜息をついた。本の世界に戻ったら再び食べられるようになることを祈りながら、袋に戻す。
もう一つの土産物が袋の底でわずかに光を反射して輝いたのを認めると、彼は荷物を取りまとめて立ち上がった。宿屋の窓からはぼんやりとした灯りが漏れている。誰も居ないということはないだろう。
からころと、押し開けた勢いに合わせてドアベルが音を立てた。それを聞いて奥のテーブルの傍に居た少女が顔を上げながら声を飛ばしてくる。
「ごめんなさい、今日はもう店仕舞いなんだけど……って、あれ?」
そこで初めて入口に立つ人物が誰なのか気が付いた、というように、彼女はぱっちりと目を見開いてユルルモンを見つめてきた。
この宿は入ってすぐに酒場を兼ねた食堂という造りになっている。宿泊客の食事の後片付けをしていたのか、エプロンをかけた少女の桃色の髪は肩口で切り揃えられ、手には大きな皿がいくつも重ねられている。よく崩さないな、と大量の皿の山を抱えたまま静止する少女に感心しながらユルルモンは酒場の奥に足を踏み入れた。歩きながら声をかける。後ろからドアが閉まるパタンという音と、衝撃で一つだけ揺れたドアベルのカランという音が追いかけてきた。
「久しぶりだな、メル。……とりあえず、手伝おうか?」
荷物を置く場所を探してぐるっと見渡すと、薄暗い食堂内にはまだいくつかの皿が残ったままとなっていた。余程の団体客が来たか、大宴会でも開かれたのか。彼女の他に人影は無い。
手伝う、という言葉に我に返ったように、メルと呼ばれた少女は眉尻を下げた笑顔を見せながら小首を傾げる。
「そう? 悪いわね、お願い」
それだけ告げると彼女は持っていた皿の上にかちゃりともう一枚皿を乗せた。もう少しで彼女の顔に届きそうなくらいうず高く積まれた皿を持って、一度厨房の方に引っ込んでいく。適当な椅子に荷物と、ついでにアームカバーを外して腕まくりをしていると、奥からぼそぼそと話し声と水音、それから食器の触れ合うかちゃかちゃという音が聞こえ始めた。
「それにしても、急にどうしたの?」
戻ってきたメルが再度皿の山を築きながらユルルモンに問いかけた。彼も同じように皿を重ねながら答える。
「またあの世界が閉じるって言うんで一旦戻ることにした。実験も兼ねてな」
「じゃあ、あの魔法使ってくれたんだ」
「ああ」
器用に皿を重ねながら、ふふ、とメルが笑い声を立てた。
「ユルルが無事ってことは、半分は成功ってことね。良かった」声音はほっとしたようでもあり、自らが作り出した魔法が上手くいったことに喜んでいるようでもあった。「それじゃあ、後は戻る時にうまくいけば、道が出来るわね」
ユルルモンの生まれた世界と彼が落っこちた本の世界を道で繋ごうと言い出したのは、他ならぬ彼女だった。
何度か行き来する内に、獣道のようなものが出来る。それを魔法でさっさと補強と整備をしてしまおうというのが彼女の主張だった。
――そうしたらもっと自由に安全に行き来出来るでしょ? 彼女さんや子供達に会えなくてもやもやするのがまるっと無くなるわよー! 私も魔法の練習が出来て一石二鳥!
堂々とそう宣言した彼女の顔はどちらかと言えば自信と好奇心に満ち溢れていた。そんなことをして大丈夫かと問うたユルルモンに、彼女はひらひらと手を振ってこうも答えた。
――大丈夫よ。あんまり沢山の他の世界と繋ぎ過ぎると流石に世界樹も弱っちゃうけど、少しくらいなら逆に刺激になってより大きくなるって、ロス……水の精霊も言ってたもの。
心配なら今度訊いてきてあげるわよー、とけらけら笑いながらメルは請け合う。まさか本当に実行するとも思えなかったが、果たして、次に本の世界に旅立つまでにちゃっかり精霊の許可と準備を整えて道具一式を渡してきたのだ。
実験に付き合って、かつ人探しをしてくれるなら宿代はチャラね、とウィンクする少女にユルルモンは呆れるやら感嘆するやらで思わず笑って実験に乗ることにした。
それが、約一か月半前のことである。
「で? 次はいつ戻る予定なの?」
かけられた声に、つと物思いから覚める。顔を上げれば、メルは一通り皿を片づけ終わったのか、台拭きでごしごしとテーブルを磨いていた。視線はテーブルに注がれたまま忙しなく動き回っている。
「わからない」
「え?」
ぴたりと動くのを止め、メルがこちらに目を向けた。どういうこと、と目顔で訊いてくる彼女に、ユルルモンは肩をすくめてみせる。
「閉じることは分かったが、それ以外はごたついててな。正確には分からない状況だ。まあ、お前に渡された発信機は置いてきたから行けるようになれば判ると思うけど」ごそごそ土産袋の中を漁りながら続けた。「それまでは里に帰るつもりだから、足を用意しておいてくれと助かる」
「良いけど、料金取るわよ?」
「金取るのかよ」
「宿代には含まれないもので」
悪びれずに言うメルに、何度目になるかわからない溜息をつく。彼女とは何度か会ったことがある程度の仲だったが、その儲けへの執念深さは身に染みて理解していた。
「そう言うと思ったよ」
言いながら土産袋の中から目当てのものを取り出すと、彼女に向かってぽい、と投げ渡した。慌てて受け取ったメルの両手の中でそれは一度跳ねた後、すとんとおさまる。縒り合されてしなやかな強度を持つ糸で色鮮やかな硝子のような欠片をいくつも繋ぎ合わされて作られた腕輪だった。
ユルルモンが手振りで着けてみろと示すと、メルは壊れ物を扱うようにそっと腕に通す。サイズは、彼女の手首に通して少しだけ余るくらいのサイズだった。
「これは?」
「向こうの世界で作った。結界の欠片とか、向こうの精霊の欠片とか、他色々」
「……結界って、加工できるものなの?」
「……まあ、向こうでは出来たな」
蝋燭の光に当てるようにメルが腕を持ち上げると、しゃらんと音を立てて欠片が躍る。七色に輝くそれは、炎の反射だけではなく、それ自体が淡い光を放っているようだった。
先程仕舞い込んだハムの絵を取り出し、同様に向こうの世界から持ち帰ったモノであることを説明する。
「こっちに持ち帰っても紙にならなかった代物だ。価値は十分あると思うぞ」
ふーん、としゃらしゃら腕輪を鳴らしていたメルは、ふいに手のひらを上に向けて瞼を閉じた。ややあってふわりと青い炎が彼女の手のひらの上で舞った。いくつかの炎を弾けさせ、ゆっくりと目を開く。満足そうに笑うと、腕輪をしゃらんと振りながら言った。
「いい感じね、これ。わかった、飛竜便を手配しておいてあげる」
「ありがとう」
交渉が成立したタイミングを見計らったかのように階段の軋む音が遠くから聞こえてきた。誰かが起きてきたらしい。
ややあってひょっこりと、入り口から黒い狼耳をピンと立てた青年が顔を覗かせた。もみあげから首回りにかけてふさふさとした毛皮に覆われているその姿は、どことなくユルルモンに似ている。
「おい、メル。シャムが……」
食堂にメルの姿を見つけて声をかけようとした青年は、途中で言葉を切り、ぽかんと口を開けたまま固まった。どうやら同時にユルルモンにも目が行ったらしい。ややあって、青年は右手で顔を覆い、やれやれといった調子でぼやいた。
「ああ、本当に居た……」
「本当とはご挨拶だな」
小声のそれを耳聡く聞きつけ、不機嫌な声で応じながら、ユルルモンは青年につかつかと近寄った。
「よお久しぶりだな? 『クレバール』」
クレバール、の部分を強調するように区切る。その眼は先程までメルに応対していた時のように穏やかなものではなく、鋭く細められ、下から青年の顔を睥睨している。クレバールと呼ばれた青年は、ユルルモンとは対照的に瞳を少しうろうろと彷徨わせた後、困ったように彼を見下ろした。
「……お前にクレバールって言われるのも変な感じだな」
「あっそ」
ユルルモンの返答は、しかしどこまでも冷淡である。そのまま――ユルルモンは睨み上げたまま、クレバールは居心地悪そうにもぞもぞと額を掻きながら――重苦しい沈黙が青年二人の間に振り落ちていく。
「まあまあ」
雰囲気を変えるようにメルが明るい声を出す。言いながら二人の背中を叩こうとし、二人が自分よりも大幅に大きいことに気が付いて目標を彼らの腰に変え、ばしんと叩いた。
「いっ……!?」
「おい、メル……!」
腰の辺り――ちょうど尻尾の付け根辺りが弱点である青年達は揃って驚いた顔でメルを見下ろす。彼女は二人を見上げてにっこりと笑って続けた。
「せっかくユルルが帰ってきたんだし、お酒用意するから二人とも呑んだら? ほらほら」
ぐいぐいと二人を食堂の奥にあるカウンター席に向かって押しやる。ユルルモンは驚いた顔のまま、クレバールは困った顔のまま、少女に促されて席に座り込んだ。かたんとカウンターに入り込む彼女を目で追いかけながら、まず先にユルルモンがふむ、と頷く。
「じゃあ、俺はぶどう酒で。あと何かチーズがあると嬉しいんだけど」
「了解。任せて」
「おい、ユルル……」
「あ、呑み代はコイツにツケといて」
顔を合わせないまま、ユルルモンはビッと親指で隣のクレバールを指し示す。「はあ!?」とクレバールが上げた素っ頓狂な声がメルの返事と重なった。信じられないといった調子でクレバールがユルルモンの方を向いた。
「お前何言って……!」
「だってオレ余計な金とか持ってねぇし」
慌てるクレバールにさらりと言ってのけると差し出されたチーズを頬張り、再び穏やかな笑顔に戻りながらユルルモンは尻尾をゆらりと揺らした。
「うーん、このプロセスチーズ?っていうのも悪くない味だな。クセが無いし。酒が進む」
ぐびぐびとぶどう酒をあおるユルルモンの様子をしばらく見て、クレバールは諦めたのか、ため息と共にカウンターの中のメルに向き合うと、同様に彼女に向かって注文した。
「ブランデー。それからナッツくれるか?」
聞こえた言葉に、ユルルモンが反応した。横目にクレバールを見やる。
「相変わらずブランデーなんて呑むんだな」
「そっちこそ。また果実酒か」
「まあな」
しばらくの間淡々と酒をあおる。時折見計らったかのようにメルが簡単なつまみを追加していくので酒も途切れることはなかった。
「それにしても、前にこっちに帰ってきてから一か月半か」
何杯目かのグラスを空けたところで、クレバールがぼんやりと呟いた。肘をついて手のひらで顎を支え、視線は壁際に貼られた暦に注がれている。
「結構早かったな」
こんなにすぐにお前とまた呑む日が来るなんてな、と小さな声で付け加える。
「オレもだ」メルが用意した干し肉をかじりながらユルルモンもぼんやりと遠い目で応じた。「お前とまた呑むにしても、もっと先だと思ってたんだが……」
一口ぶどう酒を流し込む。底が見えるようになった木製のカップを置いて、彼は続けた。
「まあ、お前を説得する機会が出来てオレとしては嬉しいけどな」
途端にクレバールの顎がずるりと手のひらから落ちた。
ばっと音がしそうな勢いでユルルモンの方を向きなおる。その表情は眉間に皺を寄せ、苦々しそうな色に染まっていた。
「お前、まだ諦めてなかったのかよ」
「もちろん」
「前回あれだけ盛大に投げ飛ばされたのにか?」
「当たり前だろ」
皺を深めていくクレバールとは対照的にユルルモンはなんてことないように淡々とした調子でキューブ型のチーズを一つ飲み込むと、ビッと人差し指をクレバールに向ける。
「オレは諦めないって言ったハズだ」
その指を凝視し、ユルルモンの顔をちらりと見て、再度クレバールは頭を抱え込んで盛大に溜息をついた。
「おっまえ、本当に諦めの悪さだけは変わらないな」
マジで、という言葉が溜息に溶け込んで空気中に消えていく。そんな彼をユルルモンは、ふん、と鼻を鳴らして再び睥睨していた。
「引きずってでも連れて帰るからな、今度こそ。皆待ってる」
皆、という言葉にクレバールの瞳が揺れた。一度何か言いたげに口を開いたものの、言葉にならない声を二、三言出しただけで閉じてしまった。足元に所在なげに視線が足下へと彷徨う。
その様子を見て、ほら、とユルルモンが呆れた声を出した。
「お前だって気になるんだろ? ジゼルがどうしてるかとか、グリフは元気かとか、コレットがどれだけかわいいかとか」
「いや、別に最後のは気にならない」
反射的にツッコミを入れたクレバールに、ユルルモンの目つきが再び、前よりも鋭くなる。眉間の皺も深い。
「あ?」
「元気かどうかは気になるさ、もちろん」
面倒くさそうに手で追い払うようなをしながら宥めようとするクレバールを、しかしユルルモンが勝ち誇ったような顔で遮った。
「もちろんって言ったな、今」
「え?」
「言ったな」
ばしっとカウンターを叩いてクレバールに向かって身を乗り出す。
「帰るぞ」
「は?」
「明日朝一で。飛竜便なら二人に増えても料金的にも問題ないだろ」
なあメル、とぽかんと口を開けているクレバールをほったらかしてユルルモンがカウンターの中の少女に問いかける。少女はこくりと頷いた。
「飛竜便は運ぶ量じゃなくて距離で値段が決まるもの。一人増えたところで金額は変わらないはずよ」
「よし」
「よくない!」
「メル、しばらくコイツ借りていくぞ」
「いいわよー。今取り立てて急ぎの用事とかないし」
「おい!」
淡々と話を進めていくユルルモンとメルに、クレバールが思わず語気を強める。
「勝手に話を進めるな! 俺は帰らないからな!」
ぶんぶんと首を振るクレバールを、胡乱げにユルルモンは見上げた。
「お前……まだそんなこと言ってるのかよ。往生際の悪い」
心底呆れたといった調子で言うユルルモンに、しかしクレバールはきっぱりと返してくる。
「悪くない」
「里の連中の様子が気になるんだろ?」
「それは……」
「ほら」
呆れすぎてどうしようもない、と肩をすくめる。
「帰らない理由の方が無いだろ。なんでそんなに頑ななんだよ」
「……お前には関係ない」
ふん、と目を閉じ、これ以上は答える気が無いという意思を示してきた。
が。
「関係なくないだろ」
低い声と共にユルルモンが、がしっとクレバールの両耳を引っ掴む。ユルルモンの方が背が低い為、当然のように耳が引っ張られる形となった。前屈みになったクレバールが痛がるのにも構わずユルルモンは続ける。
「十年前に勝手に居なくなって散々心配かけておいて、そのクセ里の連中の様子は気にしてるくせに、まだそんなこと言うかお前は」
「離せこの!」
怒りのこもったクレバールの声には応じず、ユルルモンはむしろ更にぎりぎりと力を込めていく。
「お前は本当に、ほんっとうに馬鹿だな!」
「っの!」
クレバールがユルルモンの腕を掴む。途端にばちんと何かが弾ける音がして一瞬ユルルモンの視界と意識が真っ白に飛んだ。腕を掴まれていなければ飛んだことに気付けなかった程すぐに元に戻ったが、既に手の中には何も無く
「しつこい!」
怒号と共に下から頭突きが飛んでくるのが見えた。意識が飛んだ後遺症でぐらつく頭では避け切れず、鈍い音を立てて下顎にぶつかった。体勢を保つことが出来ず、椅子から転げ落ちる。背中に固い床が当たり、口から呻き声が吐き出された。
「がっ」
「お前が何を言おうが変わらない」ゆらりと立ち上がり、視線は外したままクレバールが吐き捨てる。「俺は帰らない」
立ち去ろうと後ろを向いたクレバールの背中に黒い影が当たった。起き上がり様、ユルルモンが蹴り飛ばしたのだ。予想外の攻撃だったのか、受け身もまともに取れずに吹っ飛んでいく。
「ちょっと、喧嘩するなら外でやってくれる?」
クレバールの体が椅子をなぎ倒していくのを見送りながら、成り行きを見守っていたメルが呆れた声でたしなめた。ふらつきながらも一応聞こえたのか、ユルルモンは倒れ伏すクレバールの襟首をひっつかむと、入り口に向かって投げ飛ばした。
飛距離が足りず、手前で落ちたクレバールを追って、ユルルモンが飛び掛かる。拳を避け、胸元を掴んだクレバールが蹴り上げるように投げ上げ。
「あっ」
メルが声を上げたのと同時にバキッと派手な音を立ててドアが壊れた。舞い散る木片と共にユルルモンの体が外へ投げ出されていく。
「……修理代はクレバールに請求、と」
戻ろうとするクレバールがユルルモンによって外へ引っ張りだされていくのを見ながら、メルはそっとメモにそう残すのだった。
翌日早朝。掃除に出てきたメルは、宿の前に転がっている大きな黒いモノを見つけた。
「何、アンタら朝まで殴りあってたわけ?」
倒れ伏すユルルモンとベンチにもたれかかったクレバールを交互に見やり、呆れた声で問いかける。返ってくるのは疲れ切ったクレバールの荒い呼吸音だけだった。
ユルルモンの方は生きているのだろうか、と少し心配になったメルが屈みこんで様子を窺う。
「……俺の」
メルが箒の先でユルルモンを突っついていると、クレバールが押し出すように声を出した。
「勝ちだな。諦めろ」
うぎぎ、という呻き声がユルルモンから聞こえてくる。意識はあるし、ちゃんと聞こえているのだろう。内心メルがほっとしていると、クレバールがふらりと立ち上がって声をかけてくる。
「メル、悪いがそいつの世話を頼む。俺は寝るから」
「あ、待ってクレバール」
「ん?」
「ドア代、ちゃんと後で払ってよね」
はいはい、と苦笑しながらクレバールが宿内に引っ込んだとほぼ同時に、ユルルモンがぐっと上体を持ち上げる。相当なダメージを受けているのか、起き上がった途端にぐらりと揺れ、再び倒れそうになるのを、慌ててメルが支えた。
「ちょっと、大丈夫?」
「だい、じょうぶ、ちょっと、休めば……」
言葉が途中で途切れる。力が抜けたようにぐったりとメルに体を預けて一呼吸置き、ユルルモンもゆらりと立ち上がる。まだふらついていた。
「……すまないが、ベンチまで、連れてって、くれるか?」
「う、うん」
どさりと力なくベンチに座り込むと、ユルルモンは背もたれにずるりともたれかかって空を見上げる。
「あー、くっそ……また負けた。アイツ思いっきり投げ飛ばしやがって。流石に煉瓦は痛いっての……」
絞り出すようにそう呟いた。
「……今日、帰れそう?」
濡れタオルを持ってくるべきか、と思案しながらメルが問いかけた。ああ、と肯定が即座に返ってくる。
「帰るのに支障はない。……アイツを連れて帰れないのが残念だがな」
はあ、というため息と共に立ち上がる。もう平気なのか、とメルが内心驚いているのを尻目に、ユルルモンは先程よりもしっかりした足取りで宿に向かった。
途中ではた、と足を止め、肩ごしにメルの方を振り返る。
「飛竜のこと、頼んだぞ」
それから、と苦笑しながら付け加える。
「クレバールに『オレはまだ諦めてねぇ』って言っといてくれ」