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キレイゴトはイケナイコトなのか

先週金曜日、普段入っているボランティアで、急遽メインの方が身内の不幸で入れなくなり入ることになった関係で、おやすみしました。

スミマセン。

きちんとした媒体だったら私はとっくに首だなあと思いながら、でもまあ、きちんとしたものだったらばもっと回数減らして、とりあえず、その日出しもせずに、ためおきなんかもしていると思うので

その日出しの良さとして捉えてください!(ポジティブの押し売り)

というわけで週明けまして今週もよろしくお願いします。
そんな本日はキレイゴトについてのお話


ポジティブは綺麗事になりやすい

実は、ポジティブっていうのはわりと綺麗事になりやすいと思っています。
私自身ポジティブ人間なので、少し嫌なことがあって落ち込んでも、ま、そんな日もあるよねの如くポジティブになっていくのですが

(そうは言っても時折1日半くらいは落ち込みます。でも本当に落ち込むのは1日半くらい。。考えるのはずーっと考えたりはしますけど)

でもその変換は若干綺麗事だよねってなることがあります。
どういう時にそうなるかというと人の話の時。

自分のことであれば当然、綺麗事であってもいいと思うし、むしろそうなっている方が理想も追いかけられていてまだマシということもあったりするのですが、人のことでポジティブ変換すると、人ごとだから綺麗事で済ませられる的な方向に話がいきます。
そう、よく聞く言葉の暴力的なものですね。

でも思ってなければいいわけではないですが、人を傷つけようと思って

元気になってねとか

わかるよとか、そ

ういうこともあるよねとか

声をかける人っていないと思うのです。
共感してあげたいとか、そういう優しさからくることの方が多いのではないでしょうか。
もちろん優しさからくればいいというものではないですが、でもですよ、そういう風になってしまうと話された方は、そっか。しか言えないくなってしまう。
そして、そういった言葉が

あなたは他人だからそういうふうに思えるのよ

っていう時って結局何を言われてもそう思うのではないかなと思うのです。
正確に言えば自分が望んでいる、すでに答えとして持っているもの以外についてはそう思ってしまう。
さらに言えば、それならば相談や話などせずに黙ってればいいのだけれど人に無意識でも共感を求めて話をしていると思うんですよね。
しかも自分の望んだ方向で。

だって共感を求めてなければどういう言葉でも言いわけなので。

実は私はこれは人に物事を発信する側で気をつけないといけないなと思うのです。


一定の評価をされたくない話はしない、またはされてもスルーできる時にする

この辺をよく理解して物事を発信しないと傷つくということに私も最近気がつきました。
これはSNSだけではなくて、普段の会話からしてそう。
君にはわからないよねっていう言葉も人を傷つけようとしていう言葉ではないと思いますが、ぶっちゃけ暴力的だと思います。
もう言葉の暴力と暴力の戦い。
であるならば、最初の発信側で、何を言われても大丈夫な話か、スルーできる精神状態で物事を発信するのがいいのではないかと思うのです。

でね、そうすると最初の話にも戻っていくのですけれど

キレイゴトにはなりやすいんですよ。
人の話ではなく自分の話がね。
わりと上っ面ですーっといく感じ。
当然人には刺さりにくい。

でも、

でもですよ。

毎日刺さってたら疲れますよお互いっていう。
キレイゴトはキレイだし。耳心地も見る方もいい感じ。
でもそれはそれでいいのでは?
と思うのです。

そんな私の発信。
今日も綺麗事かもなあとか思いながら。


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綺麗事ではないですがでも後味はスッキリするといわれる本作。インドに仕事でいった日本人である主人公が奮闘する話です。

普通の会社員の主人公が、ビジネスでインドに滞在し犬を拾ったことをきっかけに、インドの日常に横たわる人々の深層意識やカスタムに触れていきます。
多様性とは生きるとはなんなのか。
NewsPicksでも紹介されました。

なんと、るろうに剣心の大友監督と、ドラゴン桜の編集などもされている佐渡島さんからも書評をいただきました。

こちらで書評と少しだけお読みいただけますのでよかったらぜひ




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yuki
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