見出し画像

第302話:敵をつくる言葉

テレビを観ていたら農家のお嫁さんとお姑さんがすごく仲良く畑仕事や家事をしている姿が映し出されていて、アナウンサーが「仲の良い秘訣は何ですか」と質問すると、お姑さんが「共通の敵がいることかね」と答えてお嫁さんと顔を見合わせて二人で笑っていた。
それはお姑さんにとっては息子、お嫁さんにとっては伴侶であるところの「男」であるらしかったが、当然、彼がどんなふうに敵であるのかまでは触れられなかったが、「共通の敵」を持つことが団結を導くということを「ああなるほどね」と思ってみた。

「敵を作る」ということが、人間にとって味方を作ったり自己を肯定する方法としてとてもわかりやすいことは言うまでもない。人間は相対的な関係を生きている動物だから「敵」の反対は「味方」である。
ただそれが正しくないのは、それも言うまでもないことであって、教育の現場で言えばそれは「いじめ」に典型的に現れる。近年ひどくなった「モンスターペアレンツ」もその類だろう。世の中に流行っている「過剰ハラスメント」も根底にはそんなことがあるのかもしれない。


ただ、「敵」の反対は「味方」だという構図は、それを逆手にとってうまい具合に利用されてもきた。「味方」を「敵」としてわざと打ち据えることで「敵」に「味方」だと思わせるやり方。枚挙にいとまない。事実かどうかは不詳だが、三国志の黄蓋のいわゆる「苦肉の策」とか、義経・弁慶の「勧進帳」とか・・。

僕も部活指導でそんな「手」を使うことがある。代が替わって新しい部長が決まった時、その部長と契約を結ぶ。
「みんなをまとめようなどと考えれば自分が潰れるから、そんなことは考えてはいけない。団結なんて幻想に過ぎないって考えて、自分が一生懸命テニスをするだけでいい。でも、もし部がうまく回らなくなって君が立ち往生した時には、みんなの前で君を猛然と怒鳴るから覚悟しておくように。それは君を怒鳴っているわけではないから、それを理解するように」と。
年に1回か2回それをやると、部長が部員の「敵」になることを救える。子どもたちは頭が柔らかいから、その意図も次第に理解する。

そういう「手」が正しいのかどうかはわからない。ただ、人が「言葉」を得たのは互いを理解するためだと考えれば、破局を導かないために「言葉」を駆使して「手」を尽くすことは必要だと思う。それは「落とし所」を探る「交渉」であり、「術」である。国同士であれば「決裂・戦争」を避けるための「外交」ということになるだろう。


今、トランプ大統領の「言葉」がひどい。

ひよっとしたら彼は「落とし所」を計算して「術」として「言葉」を発しているのかもしれない?どうだろう。でも今、僕には「敵をつくる」言葉として胸を痛める言葉でしかない。結果として何かの成果が挙げられたとしても、分断や決裂を煽るヘイトスピーチが、だから正しいものとしてまかり通る風潮が根付けば、それは大きな「言葉」への信頼の喪失だろう。民主主義の根幹に関わる問題だと思う。

あるnoterの方の記事の中に新聞に寄稿された内田樹の文章が採り上げられていた。(菊地正夫氏:https://note.com/masao0927/n/nba64b9d5cb97)

(一部抜粋)
民主政は不出来な制度である。なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないからである。市民の過半が「子ども」だと民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。そんな親切な制度は他にない。

逆に言えば、民主政が時に二の足を踏み、迷い、遅々として決断しきれないのも、そういう理由にあるかもしれない。国連の「機能不全」を言う人もいるが、それもそうかもしれない。「手」を尽くして「猛獣化した子どもたち」と「つながり」を維持しなければならない。「決裂」すれば、第二次世界大戦の時のように「猛獣」を野に放してしまうことになる。


世界の多くの国が自国第一主義を掲げ極右傾向にあって「言葉」が激化している。どんどん「敵」が量産されているかのようだ。日本でもネットを介した酷い「言葉」が政治を左右するようになってきた。不満を「煽る」ポピュリズムが向かう先が明るいとは思えない。

「子ども」は言いたいことを言う。

でも、寅さんはよく言った。
それを言っちゃあ、おしめえよ」と。
言葉にしてはならない「言葉」があり、そういう「言葉」を使う人に「煽られない」感性を持ちたい。


■土竜のひとりごと:第302話


いいなと思ったら応援しよう!