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第30話:忘却とは忘れ去ることなり
“忘却とは忘れ去ることなり”という人口に膾炙した言葉がある。
まったく当り前なことを言っているこの言葉の、しかし、ひどく単純でしかも素朴なリズムは、まさしく「なるほど」と人を納得させるだけの響きがあって、どこか高尚な何かを感じさせたりする。
自慢する訳ではないが僕は全く記憶力に優れていない。ほとんどそういう能力に欠けていると言って過言ではない。
ついこのあいだも、テレビを見ている時につまらぬヘマをした。
ある番組で「スタンドバイミー」という映画についてコメントしていたので
「これは良い映画だから見ておくといいよ」とカミさんに言ったところ、
「へぇー、あなたは見たの」と言うので、
「ああ」と答えると、
何故そんなことを聞くのか、唐突に
「どこで」と尋ねてきた。
「えーと、どこだったけかな。確かにどこかの映画館だったけどな」と例によって自分の記憶としばらく悪戦苦闘していると、カミさんが
「新宿かなんかじゃないの」と言うので
「そうそう新宿だったような気がする」と返事をすると、今度はすかさず
「誰と見たの」と聞いてきた。
「誰とって…、誰だったかな…、一人じゃなかったかな」と再び記憶との格闘を始めると、カミさんは興味深そうな顔をして
「誰か女の人だったんじゃないの」と突っ込んで来る。
「違う。そんなことはない。やっぱり一人で見たんだ」と慌てて返事をすると、カミさんは呆れた顔をして
「そうじゃないでしょ。あなたはその映画を私と一緒に新宿で見たの。」と言うのだった。
なるほどそう言われてみれば確かにそんな気もした。それなら最初からそう言ってくれればいいのに全く不届きな奴と思いもしたのだったが、以前に彼女のクリスマスプレゼントのセーターを誰かあらぬ人から貰ったものと勘違いしてカミさんを怒らせた実績のある僕は「そうだった。思い出した」などと必死で御機嫌など取ってみたりしたのである。情けないには情けない。
男性諸君は、最初のデートの場所だの、プロポーズの言葉だのをしっかり覚えていた方がいい。不意にテストされることがある。
間違ってもその昔に付き合っていた女性のことと記憶を混同したりしてはならない。それこそ最後、まさに家庭争議の種である。
ただ、そうした点を割り引いて考えてみても、忘却という現象は人間にとって甚だ有用なものではないかと僕は思う。もっと言うならば忘却は人間を幸福にする一番の近道であると言ってもよいと思っている。
過去をいつまでも覚えていれば過去の泥沼に足を引っ張られることになるだろうし、過去の華やかさに酔っていれば現実を直視する気持ちを失ってしまう。
同じように、失恋を忘れなければ新たなロマンスは生まれはしないし、プロポーズの言葉をいつまでも覚えていれば円滑な夫婦生活にとってそれは必ずや支障となるに違いない。
人は人と別れることで成長し、過去と切り離されることで自分を自由にするのであって、人生には忘れるからこそ新鮮な感動が胸に湧き起こることも多いのである。
「虚空よくものを入る」という言葉が徒然草あるが、兼好法師の言い分とは別に、虚空がゆえの自由とは甚だ魅力的な心の状態であると僕は思ったりする。
間違っても知識や思い出を自分の心の主人にしてはならない。須らく忘却すべし、である。
僕の忘却癖を非難するカミさんも、近頃ものを忘れることが多くなった。
車を掃除している時に、前の日曜日に自分が食べたアイスクリームの食べカスが落ちているのを見付けて「あなたは私に黙ってこんなものを食べた」と悔しがったりなどしている。
つい先日は僕の誕生日を忘れ、僕の非難にあうと、
「あなたの誕生日は覚えていたんだけど今日がその日なのを忘れていたの」と何が何だか分からない言い訳をしていた。
年のせいかも知れないが、カミさんもようやっと忘却という幸福への手掛かりをつかみかけて来たようである。欲を言えば、結婚前に(結婚の条件として)僕が禁煙を誓ったなどということも忘れてくれれば本当に良いと思っているこのごろである。
後日談になるが、この文章をカミさんが見付けエラク憤慨していた。
「また私をネタに使った」と言うのである。
「まあいいじゃないか」と言ったのだが、
「スタンドバイミーの話は家でテレビを見てたんじゃなくて、町田の喫茶店だったでしょ。番組中のコメントじゃなくてスタンドバイミーの音楽が流れて、そこから話が始まったの。」と鋭く指摘されてしまった。
「そうだった。結婚したばかりのころだったよね。」とあわててホローしたのだったが、
「いいえ、結婚前のことです。」とすげなく言われてしまった。
記憶とはかくも不幸なものであり、忘却こそ幸福への道しるべなのである。
(土竜のひとりごと:第30話)