第46話:黄金バッド
僕のオモチャに関する記憶はオヤジが黄金バットの人形を買って来てくれたことに始まる。金色に塗られたセルロイドの体に、表は黒、裏は赤のビニールのマントをつけた小さな人形だった。
今のものに比べれば安っぽいものであったに違いないが、その日は嬉しくて、手に持ってそれを飛行させてみたり、紐を付けて壁に吊り下げてみたり、一日中それを眺め、それと遊んだことを今でも鮮明に記憶している。
小さい頃、家は貧しかったらしい。
両親とも余り口にしないので、僕は物心つくまでの僕の歴史をほとんど知らないのだが、オヤジが血管が壊死する病気で脚を切断し、その手術で入院した時は、オフクロはオヤジの食べ残したものを食べていたという、そんな話だけはいつか耳にしたことがある。
「あの頃はそうでなくてもオモチャなんて余りなかったのよ」とはオフクロの言だが、確かに自分の子や兄貴の子のオモチャを見て、自分の子供時分、オモチャというものを持った記憶に乏しいことを今更ながらに思ったりもする。
だからこそオヤジが買って来てくれた黄金バットが、かくも嬉しかったのだろうと思う。
ただ僕の子供時代はそれでつまらないものだったかというと、そんなことはなかった。何がなくとも遊び場だけはふんだんにあり、また何はなくとも遊び道具になるものはふんだんに身の周りに溢れていた。
家の裏にある小さな山を探検したり、
山の斜面をすべり台がわりに尻にダンボールを敷いてすべってみたり、
竹やぶの中に基地を作り、壊れた椅子だの太い木の棒だの、ありとあらゆるガラクタをそこに持ち込んでみたり、
石ころがあれば陣取りの遊びをし、
笹で舟をつくって川に流し、
細い竹を切り出し八つ手の実を弾にして鉄砲まがいのものを作ったり、
風船を風に流してその風船の赴くまま田んぼを延々と駆けずり回ったり、
雨が降れば糸巻きと蝋燭と輪ゴムで車を作った。
凧や飛行機も竹トンボも独楽も。
既成の「物」がなかった代わりに、身の周りには出来る「こと」が満ち溢れていた。身の周りに転がっているものを組み合わせ、作り合わせて自分の思うものにして行く作業が僕らの遊びだった。
子どもたちだけではない。大人たちも、いや生活自体がそうだったと言えばそうだったと言えるのかもしれない。
昔は当たり前のように、買うよりも自分で物を作った。
オジイチャンは自分で鶏小屋を建て、竹で垣根を作り、鉄棒やブランコを僕らに作ってくれた。父親は竹トンボを作ってくれ、木を拾ってきては彫刻したりもしていた。おばあちゃんは漬物でも魚のつみれでも、蒟蒻でも、漬物でも、甘酒の麹まで手作りしていた。
子どもの頃、僕らも、蕨、ぜんまい、タケノコ、シイタケを採りに行き、竈で料理した。薪も割って作り風呂を沸かした。餅も臼と杵でついた。ヨモギを摘みに行きヨモギ餅も食べた。
たぶん「暮らし」とは「つくる」ということだったのだろう。
決して豊かではなかった時代、そう言えるかどうかは分からないが、振り返ってみるとそこに「楽しさ」のコツがあるのではないかと僕は今にして思ってみる。
「生きること」は「つくること」だ、と言ったら気障に思われるだろうか。
歳をとったせいだろうか、もう一度、そういう「暮らし」に戻ってみたいとこのごろ思う。
「おもしろきこともなき世だ」と思うことも多い。
社会や時代の枠組みが硬直化しているせいもあろう。ただ、生まれ、やがて老いて死んで行くという何よりも固い枠組みに僕らは制限されて生きている。枠は壊せなくても、枠を超えることはできる。そんな気もする。
紙切れ一枚あれば、折り鶴も紙風船もできる。紙相撲、紙飛行機も。短歌を書きつけたり、絵を描いてみることもできる。丸めて糸で縛れば猫と遊べる。昔だったら、揉んでやわらかくしてトイレットペーパーの代わりにもしただろう。
おもしろきこともなき世をおもしろく
高杉晋作の名句(連歌の上句であるようである)が心に響く所以である。
(土竜のひとりごと:第46話)