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第190話:なぞなぞ

 
授業はお互い疲れるので、時々、生徒に「なぞなぞ」を出して遊ぶことにしている。

例えば、(これはローカルな質問で静岡県東部を地元としている人でないと分からないかもしれない)

伊藤君と加藤君が高校卒業後、10年後に三島で会いました。さてその場所はどこだろうか?

答えは二人が久しぶりに再会した時に言うであろう、「いとう」「よお、かとう」という挨拶をそのままつなげて口にすると、「イトーヨーカ堂」が正解ということになる。イトーヨーカドーは沼津にもあるので、地元の高校生なら割とすぐに答を出してくる率が高い。


別に付き合ってくれなくてもいいのだが、生徒たちはどんな問題も答えを出そうとするから真面目だなあと思い、また、結構な別解までひねり出してくるので感心することも多い。

例えばクイズの本に載っていたなぞなぞ。

直径が5メートルもある果物は?

答えは、そんなものはありえないので「(なし)」。
しかし、生徒たちは「いやデカメロンだろう」とか「そんなバナナだろう」とか。


例えば、次の問。

金持ちな文房具は?

答えは「ちょっきん(貯金)」で「はさみ」と言うことになっている。
しかし、生徒らは「貯金があっても金持ちとは限らない」という抗議と共に、「正解は、円を作るんだからコンパスだろう」だと言う。なかなか、敵もさるものではないか。


逆質問も来る。女子生徒に聞かれた。

雪と恋とが混じり合った食べ物は?

そんな世迷い言に付き合ってはいられぬと、「北海道で食べるすき焼きだろう」といい加減に答えると、「バカなオヤジだなあ」という顔をする。
答えは「アイス」なのだそうだ。もはや僕はそんなことには興味はない。


それでも「なぞなぞ」は、分かりそうで分からないことを楽しむ遊びだから、むろん微妙に答えられないことの方が多い。だから、おもしろい。例えば、

時計に短針と長針は一日に何回ぴったりと重なり合うか?

生徒たちは、一所懸命考える。
当然「24回じゃねえの?」と言うが、「それは違う」と言うと、「えっ、じゃあ12回か?」とか「23回か?」とか、うろたえる生徒を見ていると答えを知っているのが僕だけという優越感に浸れるのが楽しい。
答えは「0回。一回も重ならない。短針と長針は長さが違うから」と言うと、オヤジ、バカにするんじゃねえという顔をする。それが、また楽しい。


あるとき伊勢物語の「東下り」で公開授業をしたことがあった。
駿河の国のくだりだが、次のように書かれている。

富士の山を見れば、五月のつごもりに雪いと白う降れり。・・その山は、ここにたとへば、富士の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻のようになむありける。

一応説明する。
「東下り」にこうして静岡の富士山や宇津ノ谷峠や愛知の八橋が書かれるのは、都から出たことのない人が多い中で、地方の「歌枕」を紹介する役割もあったと思う。富士山は真夏でも雪が残っている・・富士山をまだ見たことのない京の人たちは、さぞ驚いたんだと思う。
高さもそう。広さを表す時によく東京ドーム何個分と言う言い方がされるが、京の人たちにとって身近にある比叡山で喩える。比叡山の二十倍くらいの高さだと言われて、多分・・びっくりしただろうね」

そんなふうに説明した後、

ところでさあ、○○君、富士山が比叡山の20倍と言われて、都の人は何と言って驚いたんだと思う?

と言って生徒を指名すると、当たり前だが、生徒は答えらない。
「近くの人と相談してごらん」と言っても、お互い顔を見合わせるだけ。

そこで勝ち誇ったように、
「決まってるじゃないか。ひぇーっ(比叡)て驚いたんだよ」
と言うと、生徒たちは、こいつ、こんなお客さんが来ている授業で真面目な顔をしてそんなバカな質問をするか?という冷たい反応。


授業後、管理職から
「あの質問をするとは、さすが土屋さんですね」
と言われたのだが、これって「すばらしい言語センスを持っている」という意味だよね?


言葉で遊ぶセンスほど大事なものはない。

和歌ワカらない。何回読んでも解。
・初読で漢文はチンプンカンブンだから、初読の時は印をつけながら読む。人名は丸で囲む。これを丸で「囲んジンメェ(囲んじめえ)」と言う。地名は括弧で括っチメェ」と言う。
・形容動詞の活用(語尾)ゴビ砂漠
・この「べし」の意味は可能(叶)姉妹。
過大課題にあえぐ君たち。
・小説を読むときは描写を映像化するとエエゾウ、とか・・。

カミさんはこれらが何を意味していて、どこがおかしいのか全くわからないと言うので、恐らく何の意味か分からない方も多かろうとは思うが。


なんと10年位前には、この手のくだらぬギャグを言うたびに、待ち構えていて全員でスタンディングオベーションしてくれたクラスもあった。

今はアウェ-の孤独感にさいなまれる日々。
「面白かったら笑え!」と強要してみたり、
「笑ってくれないと、また今夜眠れなくなっちゃうんだよ」と哀願してみたりするが、それさえもスル―され、孤独は一層募るばかりである。

人の一生は、所詮つまらぬ日々の累積のうちにしかない。そのつまらぬことが大事なのだという崇高さに気が付かない人が多いと嘆いてみるが、そんな「つまらぬ授業」の累積も、気が付くと定年まであと1年になっている。
しかたがない。不安FUNに読み換えて、いましばらく頑張ることにしようと考えるこのごろである。


■土竜のひとりごと:第190話

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