第130話:トイレの貼り紙
トイレには実にいろいろな貼り紙がしてあるもので、好きな人はそれを毎日取り替えることを趣味としていたりもするらしい。その家の家訓に始まって、古人の格言、俳句や短歌、新聞の切り抜き、アイドルの写真、いろいろなものがあるようだが、受験生のいる家では英単語が貼られていたりもする。
一度、友人の家でトイレを借りたら家計簿のコピーが貼ってあってびっくりした。人の家の実態を覗くようで気が引けたが、ちらちらと見てみると、酒屋への支払いとか、小遣いの超過分とかに黄色いマーカーでチェックがされている。友人の乱費を戒めるために奥さんが貼ったものらしい。
奥さんの気持ちもわからないではないが、トイレに入ってまで責め立てられたのでは、出るものも出て来なくなってしまうのではないかと、限りない同情を感じたりした次第である。
トイレという空問の特殊性は密室であるということと同時に、一度、事に及ぶと、動きが制約される点にある。いらぬ確認だが、排泄しながらうろうろするのは、どう考えても異常行為であろう。
動きの自由が制約されると人問は暇になる。暇になると、意識が何かを求めたり、遊びだしたりする。トイレに落書きが多いのもそのせいだと思うが、貼り紙にも、つい目がいってしまうことになる。
ここで扱いたいのは、家のトイレの貼り紙ではなく、店や町の中にあるトイレの貼り紙、すなわち注意書きなのだが、駅や街頭の貼り紙などが読まれないで素通りされる運命にあるのに対し、だから、トイレの貼り紙は確実に読まれるという幸運を背負っていると言えよう。
僕もこのところこのトイレの貼り紙に何だか惹かれて、いろいろなところでトイレに入っては、おもしろいものがあるとメモしてくる習性ができつつある。長いものになると結構写すのに時間がかかり、入ってきた人に変な目で見られるのがこの「学術調査」の非常な難点ある。
試しにインターネットで「トイレの貼り紙」で検索してみたところ、出るは、出るは。世の中には変な人がいっぱいいると再認識したりもした。
ちなみに、変わったやつをいくつか紹介してみることにする。
「理解できない用便」っていったい何だろう?思わずゾクゾクと想像力がかき立てられてしまうクオリティーの高さである。
こうしてみると、たかが貼り紙ではあるが、なかなかに奥が深いと言えるかもしれない。こんな特別なバージョンに出会えたら、きっとその日は生きていることが楽しく感じられるに違いないなどとも思う。
しかし、それはそれとして、ここでちょっと真面目に考察してみたいのは、「理想的なトイレの張り紙とはいかなるものか」ということであり、したがって、人間にとって「快」とは何か、という甚だ高度な問題についてである。
あなたがふと立ち寄った駅や店のトイレに、どんなことばがあれば、あなたはふっと心を和ませることができるだろうか。そんなことばを一緒に考えながら進んでいただければ幸いである。
トイレの貼り紙と言えば、
などが一般的かつ代表的なところであろう。「トイレは清潔に」という極めて常識的なことばに僕らはずっと親しんできて、別段それを当たり前のことと受け取っていた。
しかし、ここ最近は次のような貼り紙が出現し、このパターンが急速に広まりつつある。そう言われれば一度はどこかで目にされたことがあるのではないかと思うが、
この類である。
お客様に対して「汚すな」「きれいに使え」とこちらの要求を強いているのであるから、その非礼、無礼を緩和するために、かような間接表現を考えついたということになるのだろう。
考えついた人は、「これだ!」と思ったに違いない。いかにも昨今のソフトな風潮を反映して気の利いた文句だと言える。
しかし、この表現はなかなかに好悪が分かれるところであって、僕も確かに最初のころは、新鮮でもあり、また「ありがとう」などと言われて何となく快い感じもあったのだが、コンビニなどでどこに行っても見かけるようになると、何か微妙な違和感がフツフツと生まれたりしてきたのだった。
悪いことに、この文句のあとには大概、
というようなことが書かれている場合が多く、「お客様のために一生懸命」と言われると、うまくは言えないが「過剰」な感じがして何だか抵抗してみたくなったりしてしまうのである。
このあたりの事情を金田一春彦氏はうまく説明していて、「日本人は遠慮深く、慎み深いことを美徳とし、自分がことさら何かをしたと言い立てることを嫌う」としている。典型的な一例は動詞の使い方に表れていて、日本人は自動詞による表現を好み、他動詞的な表現を好まないのだそうである。
例えば、お茶を誰かに出すときに添える言葉は「お茶を入れました」ではなく「お茶が入りました」。どんなに手をかけ骨を折った結果であっても「お風呂が沸きました」(昔はお風呂を沸かすのは大変な労働だった)「夕食ができました」と自分がやったのではなく自然ににどこからか生まれてきたように表現する。
仕事で部長に無理難題を言われたとする。二晩徹夜、一睡もせずに書類を作り上げても「私は二日寝ずに作り上げました」とは言わない。「部長、できました」で済ます。それが日本人の美しさだと言う。
だから、僕らの中にある日本人がこの表現を嫌う。
言うことを聞かない子に「あなたのためにお父さんもお母さんも必死で頑張ってるの」と親は殺し文句のつもりで言うことがあるが、それは本当に子供を殺してしまう。押し付けてはダメ。必死な後ろ姿を見せるだけで後は何も言わないのがいい。同様に「お客様のために・・」と言われると、どこか押し付けがましいという違和感がどうしても生まれてくるのである。
例えば、北海道に旅行したとき、ある喫茶店のトイレでこんな貼り紙に出会った。
「一緒に使わせて」と書けばいいことであり、改めて言われるとたとえ本当であっても嘘のように思われてしまう。「社員教育のために」というこの張り紙も、こういう文脈から考えると「過剰」なのであって、この礼儀正しさが却って「インギンブレイ」に受け取られる可能性を強く持っていると言わねばならないのである。
ならば、理想的なトイレの張り紙とはいかなるものか?変に気を使うよりは、ユーモアで切り抜けるのが一番であろう。
古典的?なものには、なかなかいいものがある。
例えば、女性には分からないかもしれないが、
というところを
と書かれていると簡潔でいい。また、
と言われると、「そうだよな」と、思わず前に出てしまう。
これはさほどいい出来とは思われないが、努力の跡が見られてなかなか好感が持てる。
このくらいになると、甚だ上等、と言っていいだろう。
でも、何と言っても圧巻なのは、有名すぎるほど有名な、この歌、
である。これを凌ぐものは今後も永久に出現しないのではないかと思う。
名歌!と言わなければならない。
ついでながら、負けじと僕も考えてみた。
「ウルトラの母」は、「アントニオ猪木」にしたり、「堀北真希」にしたりしてもおもしろい。
現在実在する貼り紙で、もし敢えてこれに対抗馬を出すとすれば、これ。
いかにも気さくな感じで、こんな貼り紙を見たら、汚したり悪さをしたりする気には到底ならないではないか。究極の間接表現である!と僕は思うが、いかがであろうか。
みなさんもぜひ真剣に考え、周囲の人と熱い議論を交わしていただきたい。思わず、充実した時間と未知なる感動的な発見に出会えること請け合いである。
みなさんの全く無意味な努力と健闘をお祈りしつつ、この「トイレの貼り紙についての学術的な考察」を終わりとしたい。バイバイ!
■土竜のひとりごと:第130話