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第294話:エジプト旅行記

前書きの前書き

これは遥か昔(27歳の頃?)に書いた「新婚旅行記」です。データはすでに紛失していましたが、机の中に放置されていた原稿を発見し、スキャナーで起こしてみました。
甚だ私的なもので人様に読んでいただくものではないのですが、昨日カミさんとテレビを観ていたらエジプトの遺跡の発掘のドキュメンタリーをやっていて何だか懐かしく、「カミさんに遺す」というこのマガジンの主旨であれば、なくなってしまう前にここに載せておいてもいいかと思い、過去記事を置き換える形で、こっそりと忍ばせておきたいと思います。


前書き

僕らが何ゆえにエジプト旅行を決意したのか、その理由は明らかではない。
「新婚旅行でエジプト?何故?」と多くの人に聞かれたのだが、自分でも明らかではないことを他人の満足するように明らかにすることなどドダイ無理な話である。

中には僕の顔を見てケラケラと笑い出す奴もいたりする。全く礼を失したことであって、人にあるまじき行為であると、僕は正直ムッとしたりした。親に至っては「お前の趣味で勝手に決めずに、しっかり彼女の意見を聞かねばダメだ」とまるでエジプト行きを何とか断念させようとすかのような言い回しをする。

断っておきたいのだが、新婚旅行をエジプトにしたのは僕の独断を彼女に押し付けたのではなく、二人の合議の結果である。僕がヒネ者なら彼女の方もよほどのヒネ者で、彼女はインドに行きたいと言っていた。
以前から「中国か、インドか、エジプトに」と何となくは話し合っていたので、彼女のたっての望みであるならばとインドに決めて旅行社に行ったところ「新婚旅行にインドはやめたほうがよい」という遠回しながらも絶対的な反対にあい、(インドではまず食あたりし、観光どころではないらしい)それで敢え無くコースをエジプトに変更したのである。

だから特にエジプトにという強いこだわりがあったわけではないのだが、どこにしろ行くならば文明の起源の地を目にしてみたいという気持はあった。と同時にこの辺りでひとつ海外旅行をして僕にも金があるんだということを証明しておきたいという下心がないことはなかった。
金のない僕はこの旅行が一生に一度の海外旅行になるかもしれないという寂しさも感じていたが、カミさんは何も知らずに「次はアメリカね」などと言っている。なかなか無邪気でよろしいが、何はともあれ我々のエジプト旅行は、およそ以上のような経緯で決められたのである。

旅行に際してはいろいろな人から、実にいろいろな助言をいただいた。
英語を勉強しておけとか、飛行機が落ちるだろうから保険に入っておけとか、その保険金の受取人は俺にしろとか、そろそろ乗っ取りがあっても良いころだとか、治安は良いだろうが下町のイスラム原理主義者の行動に注意しろとか、お土産を買って来いとか、お前は死んでもいいからカミさんだけは守れとか、服を買えとか、靴下は必ずはいて行けとか・・
いちいち挙げたらきりがないが、僕の周りで僕を囲む人々の暖かい気持ちがヒシヒシと伝わって来る忠告ばかりで、僕はある一種の感動と、強い復讐への衝動を覚えた。
僕が無事職場に復帰したときも、彼ら、或は彼女らは「土屋さんが旅行に行っていた間いなかったハエが、土屋さんと共に職員室に戻って来たよ」などと言って僕を迎えてくれたのであって、僕はつくづく僕に対する愛の深さを感じたのだった。

式の一週間ほど前からはモーレツな忙しさで、仕事やら、夜になると押し寄せて来る電話の応対やら、式の準備やら、そんなゴタゴタの中で自分が結婚するということの実感はなかなか沸いて来なかった。アタフタしているうちに結婚という大事業の当日となり、この旅行も出発の飛行機の中にいたということになる。

式の前日でさえ、夜8時頃には指輪がない、とひと騒動し、11時頃には友達を駅に迎えに行ってガス欠になったりしていた。式の前後についても心にとめておきたい幾つかの出来事もあったが、とりあえずこの旅日記は式の翌日、つまり旅行の当日の朝から書き起こしていきたいと思う。
備忘録としてのメモ風のものになろうかと思う。ご了承戴きたい。


旅行日程 ; 1987年(昭和62年)10月

19日
成田空港(16:00)→[マニラ→バンコク→カイロ]

20日
カイロ空港(5:30)→ホテル:朝食→ギザ:ピラミッド・スフィンクス(9:00)→土産物店→昼食(12:30)→ホテル:自由行動(14:00~)→ピラミッド:音と光のショー(18:30)→ホテル:夕食(21:00)→就寝(22:30)
[ホテル: MARRIOTT HOTEL & CASINO CAIRO ]

21日
起床(3:00)→カイロ空港(5:00・6:45発)→アスワン空港(8:00)→アスワンハイダム→ホテル(10:15)→スーク→ホテル:昼食:自由行動(13:00~)→アスワン空港(17:00)→アブシンベル宮殿(18:30~)→アスワン空港(20:15)→ホテル:夕食(22:00)→就寝(23:00)
[ホテル: ASWAN OBEROI HOTEL ]

22日
起床(7:30)→朝食:自由行動;昼食(9:20~13:00)→アスワン空港(14:00・15:30発)→ルクソール空港(16:00)→ホテル:ナイル川サンセットクルーズ(17:00):夕食(19:00)→カルナック神殿;音と光のショー(20:00~)→ホテル:就寝(23:00)
[ホテル:SHERATON LUXOR ]

23日
起床(5:00):朝食(7:30)→王家の谷(8:30~)→ホテル:昼食(12:00)→カルナック神殿(15:30)・ルクソール神殿(17:00)→ホテル(17:30)→ルクソール駅→寝台(19:00)→(就寝)[車中泊]

24日
(起床:朝食)→ギザ駅(7:00)→カイロ博物館(9:00~)→モハメッドアリモスク(11:00~)→ホテル:昼食(13:00):自由行動(14:00~18:00)→ナイル川クルーズ:夕食(19:30~21:20)→ホテル(22:00)→就寝(0:30)
[ホテル; MARRIOTT HOTEL & CASINO CAIRO ]

25日:起床(5:30)→カイロ空港(10:40離陸)→[バンコク→マニラ→]〓→成田空港(26日・12:05)


10月19日(月):1日目


■起床=7:00

新横浜国際ホテルの小奇麗な一室に目を覚ます。式の2、3日前には台風が通過し天気が心配されたが、昨日といい今日といい実に心地よい空模様である。小さな窓から見下ろすと、明るい空気の中に新横浜駅の電車の往来や人々のうごめきが小さく見える。平日の、しかも月曜日であることを思い出し、それだけでささやかな幸福感に浸ってしまうのは勤め人の侘しさであろうか。
順子氏はまだ眠っており、いずこからかラジオ体操の音が聞こえて来たりもしている。どこかとりとめもなく不思議に心静かな朝である。こんな朝をもう一度味わおうと、僕は9:00にもう一度起床。順子氏は既にガサゴトと荷物整理をしている。9:30にカミさんのお母さんと妹さんが荷物を持ってホテルを訪れ、しばらく更にガサゴトと荷物整理をし、チェックアウト。1万3千円程。新幹線の改札で二人に見送られ、10:45の列車で出発。

東京駅には着いたもののリムジンバスの乗り場が分からず、暫くウロウロする。何事も初めてというのはかくも心もとないものである。やっとのことでバス停を見付けバスを待っていると、外人に「チケットはどこで買うか」と聞かれたので、これはさっき買ったばかりのこと、得意げに指だけで教えてあげる。
リムジンバスに乗り込んだところで無料券を旅行社が用意してくれてあったことに気付く。思えばこれが最初のつまづきであった。

■成田空港=13:10~16:00

成田空港に着く。北ウイングで降りるのに南ウイングで降りてしまう。荷物を降ろしてくれない係員に順子氏は交渉するが「北だ」とすげなく言われる。再びバスに乗り北ウイングで降りた後、またウロウロする。順子氏が集合場所の四階に行かなければ、と売店で道を聞くが「ここが四階です」と、これもまたすげなく言われる。前途多難。東京銀行で両替。TC- ドル35万、 円25万。

14:00の集合のためにゲートをくぐり荷物の検閲を受ける。我々の荷物は妹さんから借りた、そんなに大きくはないスーツケースが一つだけだったが、いざそれを開けようとして、順子氏は、はたとスーツケースの開け方を知らぬことに気付く。閉め方だけは確かに知っていたのだ。前途多難の感いよいよ深し。
困った顔をしていると、係員が「このスーツケースはね・・」と丁寧に開け方を教えてくれる。自分の持ち物の扱いを他人に教えてもらうというのも何か妙な気分である。

14:00に第一次、14:40に第二次集合、ツァーの面々が集まり説明を受ける。
添乗員は若い女性で、どこか竹内まりやに似ていた。後で二人になった時こっそり聞いてみると26歳、僕と同い年であった。
注意は主に健康についてのことで、生水は絶対に飲んではいけない、生野菜は食べてはいけない、ジュースは飲んでもよいが氷が入っていたら飲んではいけない、という3点だった。結局、生水にかかわるものは口にするなということである。
順子氏はツァー中ただ一人、メモを取って一生懸命聞いているが、その周到さが余り功を奏さずに終わることを、まだこの時は誰も知らない。「一寸先は闇」の世の中である。

出国手続きをし、税関を通り、搭乗ゲートまで進む。後は飛行機に乗るのを待つばかり。マルボロ6個買う。

■飛行機=16:00~

15:30に搭乗。エジプト航空のボーイング機である。機内は狭く、思いなしか雑然としていた。座席は両方の窓側に二列づつ、中央に三列、トイレが前後に二つある。機内放送ではずっとエジプトの音楽が流されているが、気を紛らわすには何か頼りなく、いかにも単調な調べである。
指定された窓側の翼の見える(翼しか見えない)席に腰を落ち着ける。実は僕は飛行機に乗るのは初めて。離陸前にスクリーンで緊急時の対応が説明され、昼間聞いた怪談を夜になって思い出すようなもので、今更ながらに墜落とか乗っ取りなどという言葉が頭をかすめてゆくのは、いかんともし難い。
順子氏は、と見ると彼女は乗り馴れたもの、小さな窓から別の飛行機を見たりしている。つまり余裕である。取り残されたような気持ちになりながら、仕方なく僕は離陸までの数十分を小切手にサインをして過ごす。つまり、平静を装ったわけである。
ひと言付け加えておくと、旅行後ひと月程経ったころから飛行機がむやみに墜ち出した。リビア機、大韓機、アメリカで、フィリピンで、と。この時期に当たらなかったことを心から良かったと思う。小心者の僕のこと、間違いなくエジプトは熱海あたりに変更されていたに違いない。

16:00。飛行機はゴトゴトと走って行き、ヒョイと上がる。スッと持ち上げられる嫌な感覚がある。窓から外を覗くと、翼が抵抗を受けてトタン板のようにパタパタしているのが嫌が応でも目に入り、後方に見える景色が見る間に小さくなって、自分がどんどん上昇してゆくのがわかる。
人間は太古より地上に生活を営んで来た動物であり、地に足のつかない生活にはなじまない。したがって僕が、たとえこの期に及んで言いようの無い恐怖に捕らわれたとしても、それは臆病のせいではない。
飛行機は間もなく雲の上に出、水平飛行に入る。機は安定してまるで新幹線にでも乗っているような具合である。落ち着いて眺めると外には雲海が広がり、青い空と降り注ぐ光が美しい。すべてが地球の輪郭に沿ってなだらかに湾曲している。思わず口笛なんぞ吹きたくなる。

日本を出てすぐに食事となる。眠い。小一時間経つと進行方向に夕焼けが赤く帯状に広がっている。飛行機はその夕焼けに向かって飛び、しばらく同じ光景の中を飛び続ける。視線をずらすと後方には闇が広がっており、次第次第に辺りが闇に飲み込まれ、ついに何も見えない真っ暗闇となる。

成田を後にして約4時間半、20:40頃、マニラ空港に着く。飛行機がゴトゴトと降りると、いずこともなく拍手が起こる。飛行機から降ろされ、空港で1時間ほど休むが手持ち無沙汰でやりきれない。
順子氏はトイレに行き、500円のチップを取られたとショゲル。売店の女の子が、オノミモノと言って寄って来る。こういう形で自国の言葉を聞くのは、何か余りいい感じではない。
泥酔状態の外人がいて、近くを通る人にほえかかっている。dogと叫んではバウワウと吠え、duckと叫んではガーガーと鳴いている。順子氏は「だから酒飲みは嫌い」と言うが、僕は「僕はあれほどではない」と安心する。
21:30頃マニラを出発。窓から見える夜景が、ヤケに奇麗である。

僕らの飛行機は、この後バンコクにも同様に1時間半ほど立ち寄り、カイロを目指すことになる。全行程20時間の空の旅である。大雑束に言って成田からマニラまでが4時間半、マニラからバンコクまでが3時間半、バンコクからカイロまでが10時間。往復で考えれば、まる二日ほども飛行機に乗っていることになる。
とにかく退屈でならず、本を読もうとして読めず、眠ろうとして眠れず、外を見ても真っ暗闇、シートは狭く落ち着かず、ウトウトすれば肩が凝る。話し相手の順子氏はと見れば、見るたびにウトウト、スヤスヤとしていて相手になってくれない。閉所恐怖症というのではないが、乗り物の座席にじっとしていることが嫌いな僕としては、ほとんど気も狂わんばかりである。

更に閉口したのが機内食で、ウトウトしかけると決まって出て来る。そんなにおいしくもないかわりに、そんなにまずくもないのだが、動きもせず、腹がすかない状態ではどうにも有難迷惑としか思えない。
成田からマニラまでに1回、マニラからバンコクまでにもう1回、バンコクからカイロまでに更に2回、そして更に時差の関係で、カイロではホテルに着くと同時に朝食となる。
まるでブロイラーの鶏のようであり、胃がもたれて仕方ない。機内食は全部は食べるな、という忠告は受けていたものの、いざ目の前に並べられると、もたれを気にしながらもすべて食べずにいられないのは、悲しい貧乏人の性である。

0:50頃、バンコクに着く。空港に降り、土産物店と免税店を覗く。順子氏は象牙のネックレスに興味を示すが、僕は見なかった振りをする。しかし余りに関心の度合いが深そうなので、帰りに買おうと取りあえず言ってその場を凌ぐ。
2:30近くに三度離陸。時計をカイロ時間に合わせる。

ついでであるので時差について書いておく。飛行機がこのまま順調に飛び続ければカイロ到着時刻は東京時間で(20日pm)12:30である。つまり出発翌日の昼であるが、バンコク時間では(20日am)10:30、カイロでは(20日am)5:30、早朝ということになる。
ややこしい言い方を避ければ、東京とバンコクとの間には2時間、同じくカイロとの間には7時間の時差があり、その分時計を遅らせる。つまり要は、バンコクを飛び立った現在、東京は(20日am)2:30、カイロはまだ昨日の(19日pm)19:30である。余計ややこしいが、どうでも良い。
飛行機から降りられるのは10時間後。これから時計に身体を合わせてゆく。以後、記述の時間はすべてカイロ時間である。

10月20日(火):2日目


とにかく気力を振り絞って椅子に腰を掛け、食べたくもないメシを食いつつ頑張っていると5:00頃、後方から朝焼けが迫って来る。次第に辺りが明るくなり、5:30、カイロ空港にゴトゴトと降りる。
無事に着いたという安堵感と、やっと着いたという疲労感が同時に訪れる。とにもかくにも到着。飛行機から降り立つと「かわたれ」のカイロ空港はえも言えぬ幻想的な光景。ほの暗い滑走路にオレンジ色の灯りが点々とつながっており、地平線がうすぼんやりと空に続いている。どこか妙な感激を覚えつつバスに乗り滑走路を後にする。

諸手続きを済ませ、ホテルの用意したバスでカイロ市内に向かう。ホテルまで、途中エジプト独立を記念した(1973)10月6日と呼ばれる道路を通り、40分ほどの道のりである。初めて自分の目にする異国の街のこと、バスの窓に張り付くようにして覗き見る。

その印象を一言でいうならば「雑然」ということになろう。僕の少ない語彙ではそんな曖昧な表現がしっくりする。
騒然とし、ゴミゴミしていると言ってもよい。車線も明瞭でなく信号さえ余りない道に隙間なく車が溢れ、各々の車はクラクションと怒鳴り声をお互いに浴びせ合いながら強引に突き進んで行く。走っている車の10台中8、9台はボロボロで、ベンツのタクシーなど至るところで見掛けるがどれも随所にへこみが激しい。
道路端には人々が溢れ、そこをまたロバに引かれた荷車が通る。電車は扉が開け放たれたまま走り、電車が通り過ぎると踏み切りもないところを人の一群が渡って行く。
洗濯物を干してある下町風の建物の並び。かと思えば、立ち並ぶ甚だしく近代化された鉄筋のビル。外国企業の看板のけばけばしさ、あるいはボロボロの様。
視線を遠くにあげると、民家が低く黄土色に続いている。造りかけているのか崩れかけているのかも判然としない土の家である。熱帯の国らしい木々の濃い緑も砂塵にすすけ、ナイルさえ、むしろ汚く澱んでいる。
街全体が薄い黄土色のベールに覆われ、鮮やかさなどどこからも感じられない。それでいて不思議に息づいている感じがし、牽き付けられる。有り体な感想だがそれがカイロに対する第一印象。魅力ある土色の街である。

7:00頃、ホテルに着く。ナイル川の川岸に立つ、王室を改装したという豪華なホテルである(マリオットホテル)。後で聞いたところによると、確かに一流ではあっても超一流ではないそうなのだが、ツァーの面々はロビーに置いてある豪華な椅子に代わる代わる腰を掛け、記念写真を撮っている。
エジプトに来ようなどと思う人達は一体どんな生活をしているのか、ひょっとするとアメリカやヨーロッパなど行き尽くしている金持ちばかりかもしれないと内心恐れていたのだが、こんな風で皆に貧乏人の風情があり、少々安心する。

飛行機から解放された爽快な気分で朝食を存分に食べ、9:00頃ピラミッドを見るためギザに出発。バス中、ふと見ると順子氏はカガミを取り出し美顔に精を出している。式の前に半ば強引にこの美顔というやつをやらされ、いろいろ詰まらぬことを言われたらしい。女は飾らぬ方がいい、悪あがきはやめた方がいい、と僕は切に思うのだが。

■ギザのピラミッド・スフィンクス=9:00

ギザの大きな通りを進みながらガイドさん(この方はケイコさんという日本人で我々の旅行にすべて同行してくれることになる。以下、ケイコさん)に促されて左前方を見ると、すぐそこにピラミッドの巨大な影がうっすらと宙に浮いているように見える。
あっと驚いているとバスは左に曲がり、そこにひょっこりとピラミッドの全景が現れた。「♪月の砂漢をはるばると」ではないが砂漠の中を進んでゆくとやっと現れるのが僕が抱いていたピラミッドのイメージであって、こんなにひょっこりとしたピラミットの出現がいかに予期に反し、驚嘆に値したかはなかなか理解してもらえまい。
あるいはピラミッドに対する期待が遇勲であり遇ぎたせいもあろう。往々にして人はひとりよがりのイメージの中に住み、そこにロマンなど燃やしていることが多い。そして、それをいとも簡単に打ち砕かれたときには、自分の誤りに気付いていて、それでもなお自分のイメージに固執したがるものである。
すなわち我々ツァーの一行は「なぁんだ」という落胆めいた感想を飛行機疲れのぼんやりとした頭に抱き、その落胆の責任をビラミッドに押し付けた。そうだ、そうだビラミッドが悪い!ってな具合である。

しかし確かにバスを降りてふり仰いでみると、それは予想以上にドデカク、のしかかり圧倒するような威圧感をもって迫っていた。第一ピラミッド(クフ王)から視線を右に移すと、向こうにまた別のピラミッドが聳え(カフラー王)、更にまたその背後にもうひとつピラミッド(メンカウラー王、60メートル)が隠れている。その壮観な様は確かに石の文化の象徴と呼ぶにふさわしく、積み上げられている一つ一つの石の量感にさえ異なる文化に触れた実感があった。
順子氏は思わずコケたりしたが、石の大きさは人の身長ほどもあり、よじ登るには少々しんどい。ひんやりとした感触と共にずっしりとした重みを感じさせ、そこに確固たる安定感が存在している。

ピラミッドについての詳細な説明は解説書に譲りたいが、クフ王の大ピラミッドは137m、この巨大な石が約250万個使われているという。10万人の人聞が20年かけて造ったそうだ。
ただ不思議なことに、そういう印象、そうした壮大な景観も、確かな感銘と共に受け止めるにはどこか取り留めなく、どうかすると、忽ちどことなくぼんやりくすんでしまう。それがまた妙に取り留めのない感覚なのであって、言ってみれば三回目の失恋のその瞬間のようで、情けないほど無感動なのである。
ともかくもせっかくの旅、記憶の隅に焼き付けようと思って周囲を見渡すと、眼前にはギザの街並みが土色に広がり、頭を返すと、ここから砂漠が果てしなく続いて行く。無論ビラミッドもその中で土色にその姿を横たえている。
黄土色一色に覆い尽くされたその単色の風景は、いかにもものうげな風景として目に映っている。

さて、話を進めよう。クフ王のピラミッドの内部に歩を進める。入口は今はふさがれているため、盗賊が開けたという穴から入り、回廊を通って玄室に至る。
通路は予想外に狭く、途中からは腰を屈めて上って行かなければならない。内部に近付くにつれて蒸し暑くなり、汗が噴き出して来る。更に狭い通路をひとつくぐるとポッカリとした空間に出、ここが王の玄室であるとケイコさんが説明する。
どうということもないと言えば、どうということもない。天井はかなり高く、かなりいい加減な解説だが、10畳から20畳程のスペースの奥よりに王の石棺が置かれている。無論、石棺の中は空っぽである。

空っぽの箱を覗いておもしろく思うのが難しいのは別に普通のことであるが、ツァーの面々も多少物足りなかったようで、石棺に一瞥をくれた後、換気口の小さな穴に首を突っ込んだりしている。
順子氏は棺に首を突っ込んで一生懸命に見ている。クフ王の遺体は盗まれたのか、盗まれることを予想して新たな場所に隠し移したのか、不勉強でよくは知らないが諸説紛々としているらしい。
最近になって、このピラミッドについてのまた新たな研究、探検がいろいろに行われているようであり、そんなことについてもここに来れば自然に解るのではと思っていたのだが、ツァーではやはりそうはいかない。王妃の部屋も見ることが出来ないというのでそのまま外にトンボがえりする。

何から何まで世話になり贅沢を言える筋合いではないが、いかにも「ツァー」らしくピラミッドを出たところでピラミッドを背景に写真を促され、その後またバスに乗り、三つのピラミッドが見える(つまり写真を撮るのにちょうど良い)位置に連れて行かれ写真を撮る。そしてまたバスに乗りスフィンクスを見に行くも、近くに寄ることが出来ないということで、ここでもバスを止めた道路端から塀ごしに写真だけを撮ってさっさと去る。そんな調子である。
用意されていたかのように行く場所ごとにレンズの前に立たなければならないのは苦痛であるし、元来、僕はカメラが好きでない。目にする全てのものに対する印象や感動は各人の記憶の中で時の移り変わりと共に変化して行くべきものであって、今という瞬間を思い出として残そうというのは甚だ感傷的な行為ではないかと僕は患うのだが。
順子氏はそういう僕に対して、だいたいカメラを持ち歩いたり、キャップを取ったり、シャッターを押したり、いちいちレンズに向かってほほ笑んだり、そういうことは「面倒でかなわない」って、ただそれだけでしょ、と応答する。
恐ろしいほどに僕の性癖は彼女に見抜かれてしまっているらしい。

ついでに書いておくが、更に「たび」の気をそぐのは物売りのオジサンたちで、僕らがバスを降りるたびに、売り物を手に手に持ってはたどたどしい日本語で「ジェンブデシェンエン(全部で千円)」としつこく迫ってくる。
ラクダの人形あり、ネックレスあり、民族楽器あり、絵葉書あり、売り物は人それぞれとりどりなのだが、ラクダの人形をひとつしか持っていないのに「ジェンブデシェンェン」と叫んでいるオジサンもいる。
中には「I am poor man. You are rich.」などと叫んでいるオジサンもいる。一方、子供も頑張っていて、僕らがカメラを構えているとスッとそこヘラクダなんぞを引っ張って入って来る。これはかわいいと思ってシャッターを押そうとすると添乗員のウメヅさんがサッと止める。モデル料を取られるから撮ってはいけないと言うのである。
「物を売っている人に温情を抱いてはいけない。ただひたすら無視せよ。」というのが観光のポイントである。貧しい国なのである。そんなことも違和感として胸をかすめていく。

■昼食=12:30・ホテルヘ=14:00

スフィンクスに若干の恨みがましさを覚えながら、昼食を取るためバスでカイロ市内に戻る。途中、土産物店に二軒寄る。

一軒はパピルスの店で、パピルスの製法の説明を受けた後、店内を見る。並べられたなかなか上質の展示品を見ながら、これが世界史の授業でさんざん習わされた、あのパピルスカ、と思うと、高校時代に世界史のテストでいつもビリに近い(ビリではない)成績に苦しめられた僕としては一抹の感慨が沸き起こるのをどうしても禁じ得なかった。意昧のない優越感に浸りながら二十数点を買う。332ポンド。ガサばらず、軽く、しかもエジプトらしい、お土産には最適の品である。

二軒目は貝殻紬工、銅の皿、金などを扱う店。ここでは店主の「安くする」という口車に乗ってペンダントの金のプレートを順子氏に買ってあげる、思えば婚約の記念品さえ僕は貰い倒しにしていた。
緒婚の条件として彼女が付けた、禁煙、若しくは健康診断、という約束も僕は守ろうとしていない。守る気がないのではないが、僕はタバコを深く愛しており、病院を深く恐れているのである。それを切に説くのだがなかなか分かってもらえない。時に彼女は僕を嘘つき呼ばわりしたりするが。
そこで、決してごまかそうなどと思ったのではないが、良い機会なのでこれをプレゼントしたのである。プレートは18金、象形文字でJUNKOと彫られ、75ドル。

ポンドとドルの二つの通貨が登場したが、エジプトの基本通貨はエジプトポンドであり、その下にピアストルという単位がある。無論、きちんとした店では、ドルは勿論、円でも取り扱ってくれる。しかしそれが案外に仇となり、短期間の滞在ではいたしかたないのだが、最後まで数字にいたって弱い僕の頭を混乱させてくれることになるのである。
ちなみに互いの価値は大雑束に言って、0.5ドル=1エジプトポンド[=100ピアスドル]。円に換算すると、おおよそ1ドル=140円、1エジプトポンド=70円となる。

さてその後、我々一同が昼食にといって連れて行かれた所は、なんと中華料理店であった。その名も「宝龍」である。
エジプトで、しかもカイロに着いたその日に、中華料理を食べることになるとは予想だにしていなかった僕らは、少々興奮した。日本で言えばどこにでもある中級店クラスで感じは決して悪くはない。ゆったりして落ち着いた店である。
料理がならべられ、割合に馴染みのある中華のこと、リラックスして食べる。ゴハンも付いている。ただ、このゴハンはパサパサとしている上に臭いがあり、おいしいとは言えない。
箸さえ用意されていて、その箸とスプーンで食べるが、スプーンを使いながら「エジプトのスプーンも日本のと余り変わらないものだなあ」と思ってひっくりかえしてみるとJAPANと書いてある。更にふと気が付くと、店内に流れている音楽はいつの間にか日本の演歌になっていて、石川さゆりが「津軽海峡冬げえしき~」などとコブシをきかせている、ここまでサービスが行き届くとさすがに興ざめで、無意識のうちに日本にいるような錯覚を起こしていた僕らも、はっと我に返って、せっかく20時間もの苦しみに耐えて来たのだから、もっと異国情緒に浸りたいというわがままな気持ちが起こっても来るのである。ツァー一同、料理を多量に残し昼食を終える。

14:00、ようようホテルに戻る。18:20まで自由時間の指示が出る、外出の際のタクシーの乗り方について説明があるが、疲れ切っていて誰も外出しようとはしない。三々五々部屋に散って行く。
僕らも部屋に向い、途中、ホテル内の銀行でドルのTCをポンドに両替する。しどろもどろ、たじたじの会話の後なんとか両替を済ませホッとするが、銀行を出たところでツァー客の山田さんに(しばしば登場して来そうな人物なのでご記憶戴きたい)「ごまかされなかったか」と尋ねられ、今さらのように数えてみると確かに足りない。ポンドの単位はあっているのだがその下のピアストルはかなりいい加減なことになっているのである。
これはひどいと思ったが、後の祭りである。初めて目にする色々な種類の札の見分けはそう簡単につくものではない。ましてPlease change.と言うだけで二の句が継げないほどの語学力では、この場を早く切り上げたいという頭しかない。
だいたい銀行がごまかすなどということは考えもしないノーテンキな日本人なのである。
腹立たしいには腹立たしいが、もう一度交渉する気には到底なれない。そう言えばさっきのタクシーにっいての注意も、料金のトラブルが起きるので、必ずホテルの前で拾い、料金とチップの交渉をしてから利用せよというものだった。
かくてエジプトでは銀行でさえ信用できないのである。要注意。ゲンナリした気分で部屋に戻り、しかし、ようよう体を伸ばしゆったりする。順子氏と子供のことなど話するが、内容はとりあえず秘密である。

■ピラミッド・音と光のショー=19:30

暫時の休息はあっと言う間に終わり、18:30より再びギザに向かい、夜のピラミッドを見に出掛ける。自由参加であるがツァーの殆どが勇んでバスに棄り込む。僕は余り気が乗らなかったのだが、順子氏に「行こう」と言われてしまったので仕方がない、のそのそと出かける。それは僕がシリに敷かれている事を意味しているのではなく、優しい夫として彼女を思いやっただけである。

気が乗らないと言っても多少の期待は持って出かけたのだが、率直に言ってまるでおもしろくない。三つのピラミッドとスフィンクスに代わる代わる光が当てられ、音楽と語りとで全体が叙事詩的に仕立てられているのだが、光の使われ方が単調であるし、大体言葉がからきし分からない。そのうえ眠く、寒い。約1時間をボンヤリ椅子に腰かけて震えて過ごす。授業を呆然と聞き過ごす生徒の気持ちもきっとこんなものであるに違いない。

疲れ切ってホテルに戻り、21:00より夕食を食べる。鶏肉のコース。一緒の席になった遠藤女史(この人物の名もご記憶いただきたい)が水を飲みたいというので、順子氏が早速ボーイを呼び、「Mineral Water」と言うとボーイは頷く。出て来たミネラルウォーターのビンが開かないので再び順子氏がボーイを呼び付け、「Open」と言うとボーイがさっとそれを開けてくれる。BANKでしどろもどろになっていた僕に比べ、順子氏の英語はほぼ完壁である…。幾ら待っても出て来ぬコーヒーを待って1時間半ほどの長い食事となり、22:30頃ようやく部屋に戻って寝る態勢が整う。体を伸ばして寝ることが随分久し振りのように患われ、やっと落ち着いた気分になる。と言っても翌日は3:30の起床が宣告されており、この幸福な気分もそれだけで何か滅入りがちのものになってしまう。「惰眠を貪る」。これこそが人間の最大の幸福ではなかろうか。と時差ボケの頭と体は訴える。殆ど何も覚えず牛のごとくに眠る。


10月21日(水):3日目


■起床=3:30

モーニングコールで起こされるが、眠くてかなわない。どうして自分が起きなければならないのか納得がゆかずうとうとしていると、夢見心地に「起きろ」という順子氏の怒鳴り声が子守歌のように聞こえて来る。
なおうとうとしていると突然デンブに鋭い衝撃を感じ、もしや地震かとはっと目を覚ますと、なんと順子氏が僕の尻を蹴飛ばしている。無体な奴と患ったが逆襲するだけの気力も起こらない。ようよう起き出して4:20の集合に間に合わせるためにバタバタと荷物整理を始める。

「起床から出勤まで5分」の生活に鍛えられている僕は準備にさほどの時間は要しないのであるが、順子氏はよほど健全な生活を送って来たらしい。僕に言わせれば実にのろのろとした支度ぶりである。さあ行こうと荷物を持って部屋を出ようとしてから、思い出したように更に5分の時間がかかるのである。

旅行中、集合時間というものに余裕で聞に合った例はないのだが、それはしたがって、僕の寝坊の責任ではないと僕は思う。したくてしているわけではないが、ホテルの廊下をダッシュし、集まっているツァーの面々に「すいません」と言うのが僕らの朝のパターンとして定着する。

4:30、バスに乗りカイロ空港に出発、バスの中でホテルの用意してくれた朝食をとる。日本でよくケーキを入れるような大きめの箱に、パン2個、マンゴ、クッキー、ゆで卵、ペプシコーラー瓶が無造作にゴロゴロと入っている。
しかし、マンゴはあれどナイフはなく、コーラはあれども栓抜きがない。何でも持っている山田さんが栓抜きを颯爽と取り出さなけれぱ、皆コーラの瓶をそのまま持ち歩かなければならなかったろう。事実マンゴは皆まる一日持ち歩いた。
こういうホテル側の親切ながらちょっと抜けたところは、順子氏のイメージそのものである。

5:00に空港に着き、6:45の離陸まで、手持ち無沙汰のままロビーでうだうだとする。こんなことならもう少し寝かせておいてくれれば、と思うが、飛行機という奴は電車に乗るようには簡単に乗せてくれないものらしい。この場合は違うのだが、国際線では2時問の待ち時間が必要ということである。

手持ち無沙汰のまま、うろついている猫をかまう(カイロ空港は猫がゴロゴロいる不思議な空港である)と、遊んでやろうという僕の思いやりを猫の野郎は仇で返し、僕の指を引っ掻いて逃げて行く。血は出る、暇潰しの相手に逃げられる、順子氏には笑われる、さんざんである。

やっと搭乗し座席に落ち着く。前と同じように翼しか見えない窓際の席。もう慣れてしまって飛行機に対する恐怖心も、別段湧き起こっては来ない。ゲンキンなものである。
僕は猫にかじられた傷が疼き、そのことを順子氏に訴えると、彼女は化膿止めをもっていながら、僕の傷にかゆみ止めを塗る。「それは傷に塗る薬ではない」と僕が文句を言うと、「目薬もあるよ」と訳の分からないことを言う。

その後、順子氏は突如さっき飲まずにおいたペプシコーラを飲みたいと言い出し、また僕を困らせる。栓を抜こうにも栓抜きの主なる山田さんとは席が離れてしまっている。仕方なく前の座席の金具に引っかけて開けようとしていると、隣に座っていた外人のオバサンがニコニコしながら、栓抜きをポンと貸してくれる。持っているものである。
しばし感動、旅行をするのに栓抜きは案外必需品であるのかもしれない。

機は安定して飛び、途中よりナイル川が見える。全長6650km、世界最長の川で、エチオピァを水源とする青ナイルとビクトリア湖から流れ出る白ナイル(ある時刻、川が白く見えると言う)の2本の川がハルツームで合流し、ここエジプトに至っている。
カイロからアスワンヘ飛行機はこのナイル本流をさかのぼりつつ飛んでいることになるが、カイロの澱み濁った流れとは全く趣きを異にし、それは美しい青々とした蛇行として土色の砂漠に身をくねらせている。

何よりも「エジプトはナイルの賜物」と言われる、その豊かな力のイメージが人の思いを駆るのか、乗客は皆窓に張り付いて歓声をあげる。それも飛行機の片側でしか見えないために、かなりの乗客が席を離れそちら側に群がっているのである。飛行機は大丈夫だろうかと僕は心ひそかに心配したりする。
順子氏はと見れば、この人は寝ている。幸せそうである。揺り動かして見に行けと促す。しばらくして、その順子氏が座席に戻って来たころ、飛行機は左手にナセル湖を見ながら大きく旋回し着陸の態勢にはいる。

■アスワンハイダム=9:00

8:00頃、アスワン空港に着く、荷物を受け取った後、バスでアスワンハイダムに向かう。アスワンハイダムという名も小学校以来、耳にタコが出来るほど聞かされて来た名であるが、かねて抱いていたイメージと実物との間にはかなりの隔たりがあった。
だいたい僕の描くイメージは「秋=着るものに困る」という類いの貧困なものでしかなく、どうせたいしたものではない。ダムと言われて想像出来るのは、高い、白い、水がいっぱい、という三つの形容詞が僕にはやっとなのである。
しかし、その三つの形容詞が全く的外れだったかと言えばそんなことはなく、確かにそのことば通りだった訳だが、日本流の渓谷に作られているダムとそれとはおよそ違っている。

バスが走っている道端にスッと横付けされ、ではダムを見学しますと言われて降りるとダムの姿はどこにも見えず、「どこがダム? まだだいぶ歩くのか」と一瞬嫌な予感にとらわれたりしたのだが、実はその足元の道路自体がもうダムだった。
要するにダムは「縦長」ではなく「横長」であったのであり、これも貧困な語彙で言わせてもらえば「バカデカイ堤防」だったわけである。砂漠の真ん中に作られているダムと日本のダムに違いがあることはちょっと考えれば誰にでも分かることなのだが、不用心の僕はそんなことさえ考えず、迂闊にも驚いてしまったことになる。
その虚をついて順子氏は「ビラミッドだってダムだって【百聞は一見に如かず】、来てみて良かったでしょ、だから次はアメリカね。などと言う。彼女は「任せろ」という僕の言葉を全然信用しようとしないのである。

また写真撮影をし、しばらく景色に眺め入る。
ナセル湖は雄大でたたえている水も青々としている。魚も取るそうだが、今は遊覧船らしい船が岸につながれているのがポツンと見える。見渡す限り、砂漠。遠くに神殿が小さく見えるくらいで湖の大きさをそれなりの実感として受け止めるのはなかなか難しい。
反対側には発電所の鉄塔がゴチャゴチャと立っており、ダムの果たしている役割の重さを感じさせている。最初に造られたアスワンダムは余り役に立たず、治水、発電の主だった役割は専らこのアスワンハイダムが引き受けているという。
この後、バスでアスワンダムも通ることになるが、構造については分からないが外観としては小さな四角い石を積み上げたもので、どちらかといえばこちらのほうが風情があり、心なしか印象的である。
それに比べると、ソ連との技術協力によって造られた、このアスワンハイダムの相は甚だしく近代的であり、むしろ一般的なものであると言えるかもしれない。

さっきからつきまとっている虚をつかれた感じとは、あるいはこんなところにも起因しているのだろうか。「エジプトらしさ」も知らないのに気持ちのどこかに「エジプトらしさ」を求めている軽薄な観光客根性がはびこっていて、ピラミッドの時もそうだったが、旅行中こうした思いから抜け出ることがなかなかできなかった。僕にとっては、まさにその意味で「百聞は一見に如かず」である。
バスに乗り込み、赤色花商岩(ピラミッドにも使われている)の切り出し場で切り出し失敗のオベリスクを見学した後、ホテルに向かう。

■スーク=11:00

10:15頃ホテル着、ナイル川中洲にある超一流ホテルでアスワンオベロイホテルと言う。専用船で渡る。チェックインの手続きを待つ間トイレに出かけるが、アサガオ(小用便器)が異常に高い。日本人の足の短さを、しばし噛みしめるように、思う。
そう言えば幸か不幸かアサガオ君に出会ったのは、後にも先にも旅行中この一回きりである。ほかは皆いわゆる洋式トイレ、水洗であった。行きの飛行機の中で読んだ旅行ガイドには、トイレには紙がないので手で始末し、バケツに用意されている水で子を洗って、その水で便器を流す。だから右手で握手をしないのだ。というようなことが書いてあった。
順子氏はそれを深く恐れていたが、僕は内心ひそかに楽しみにしていた。それはともかく、背伸びをし、上向きに用を足す。そこで一首、

アスワンの白きアサガオ高ければ便器のヘリにとどかざりけり

正岡子規に叱られそうな駄作である。

チェックインが手間取り、まだ時間がかかるというので、先にスーク(市場)を見に出掛ける。船で岸に渡り、岸沿いの大通りを一本横切って少し行くと、そこに大通りと平行にスークの店々が軒を連ねていた。
幅5mほどの小路の両側にあふれんばかりに果物やエジプト綿、肉、洋服、その他の日用品が、あるいは積まれ、あるいは軒先に吊されて小路を賑やかに彩り、小路には雑多な人がガサガサ、しかものんきに群れている。床屋もある。
ちょうど上野のアメ横や東京に幾つか残っているかつての闇市の活気を連想して貰えれば良いと思うのだが、スーク全体が騒然、雑然とした空気に包まれていて実にそれらしく、臭いのある生活そのものを確かに感じさせてくれる。

更におもしろいのは、その小路を旨転車が通り、バイクが通り、ロバに引かれた荷馬車が通り、自動車が通る。おちおち歩いてもいられない。挨が舞い上がり、ロバが残して行くフンの悪臭が立ち込める。
冷蔵施設がないために、肉は軒先に布を巻いた状態で吊り下げられ、客は直接そこから肉を切ってもらい買って行く、見ると肉には蝿。果物や野菜にもやはり蝿がたかり、魚は道端に置かれた編み篭のうえに無造作に積まれて、その前にシワの深いおばあさんが黙って座っている。
「不潔」という感想が確かに的を得たものとして胸に迫って来る。と同時にそれだけで片付けてしまえないものもまた確かにあると思ったりする。

僕らと同じ「L00K」のバッチを胸につけている妙なオジサンもいて、僕らの方に向かって自分の胸を指し「L00K、L00K」と言っては目分の店を指し「Look! Look!」などと言ったりしている。あっけらかんと明るく、行く先々で付きまとって来る物売りのような嫌みな感じはない。
水パイプをゆったりとくゆらせている人、民族衣装のエジプト綿の白と黒、ロバの鼻息、くすんだ空気、照りつける強い日差し・・。
あるいは特別な世界ではないのであろうが、これ以外にエジプトの生の姿に直接触れることが出来なかった僕らにとっては貴重な一つの世界として印象に強く残る。しかも通りをひとつ抜けるとそこには近代的なビルが建ち並び、車がクラクションを鳴らしながら連なっている。ナイルは青々として流れ、木々が茂り、川面にはヨットが白い帆をさんさんと秋の陽に輝かせているのである。
その世界の落差は、しかし決して不快なものではなく、何故だろうか、僕にはひどく懐かしいもののように感じられた。取り留めのない思いではあるが。

・店先に汚物のごとき血を吐きて羊肉蠅をあつめてをりぬ
・つるされし羊肉いつかわれとなりスークの路地に深く迷ひぬ
・無造作に路上に置かれ皺深き老女のために魚売られゐき
・黒き顔の黒き瞳の少年が今しもロバを引きて通りぬ

■ホテル=13:00

ホテルに戻り昼食をとる。山田さんは相変わらず元気だが、遠藤さんと順子氏はやや疲れ気昧。15:50の出発まで休憩がもらえるというので部屋に入りゴロゴロする。
都屋は豪華すぎるほど豪華なもの。それぞれの部屋が縦割りの二階造りになっていて、一階はリビング風の部屋、二階は寝室である。トイレは両階にあり、二階分の大きな窓に長~いカーテンが付けられている。古く落ち着いた家具。広々とした室内。日本でこれだけの部屋に泊まれば、恐らく僕の給料が吹っ飛ぶに違いない。こんな贅沢な部屋にはもう二度と泊まれないに違いない、そう思うと感概も一入である。

やはり飛行機の中で読んだ旅行ガイドにはエジプトのホテル事情の悪さが書かれており、その文句から想像して相当ボロの宿に泊まらねばならないと覚悟してきたのだが、実際にはかくのごときの宿、驚くばかりであった。

ただ悲しいことにこうした状況に不慣れな僕たちは、身の置き場所に困るような、どこか所在無いものを感じずにいられなかった。順子氏はカバンの上げ下げが面倒とブツブツ言う。狭いところがどちらかと言えば好きな僕は、背後に何か隠れているような気がして落ちつかない。つくづくおのれの育った環境の貧困さが思われるのである。

しかしこのホテル、完璧かと言えば決してそうではなく、一晩の滞在のうちに停電が2回、シャワーのお湯が突然水になること1回、更に、水道から出る水には絶えず細かい泥が交じっていた。そういう点では日本の安ホテルにさえまさるものではない。

■アブシンベル神殿=18:30

15:50の集合に例のダッシュで駆け付け、再びアスワン空港に向かおうとツァー一同ホテルを出るが、迎えのバスはなかなか来ず、ナイルの岸辺で一時間半ほど待たされる。
異様に喉が渇き、二人でポリの臭いのしみついたミネラルウォーターをがぶがぶ飲む。疲れているせいか誰もしゃべらない。いかにも手持ち無沙汰で僕は石を川に投げて遊ぶ。人間は何故、海や大河を見ると石を投げたくなるのだろう、と意昧のない思考に耽っていると、やっとバスが来る。
バスの運転手は遅れた責任を感じてか物凄いスピードで飛ばしまくり、前に遅い車が走っていようものなら届くはずもないのに罵声を浴びせ、身振り手振り、しまいには車ごと突っ込みそうな勢いであおりにあおる。恐ろしいほどの運転だが、こういう点、エジプト人の素朴な善良さも感じる。
この後さまざまな折々に、こうしたエジプトの人々の明るさ、優しさに触れることになる。

奮闘のかいあって悠々17:40の飛行機に間に合う、40分程飛行機に揺られ、更に空港からバスで10分も行くと、お目当てのアブシンベル神殿に着く。
18:30。夕方から夜にかけての日帰り?の小旅行ということになるが、「ちょっと飛行機で往復」というこうした感覚にはなかなか馴染めないし、かつそうした感覚をなかなか理解出来ない。でもなんだか飛行機に慣れてしまっている自分を一方では感じたりもして、変な気分である。

あたりはもう真っ暗で神殿は所々が煌々とした明かりに照らされていた。バカデカイのっぺらぼうのドームのような土の山を、暗い足元を気にしながらぐるっと回って反対側に出ると、これもまたバカデカイ像が四体、暗闇の中に浮き上がっている。四体ともにラムセス二世の像であるとケイコさんが説明する。
ラムセスニ世はBC1300年頃の王で、その名を残す遺跡はエジプトの各地に数多くあり、それだけ権力意識の強かった王であったらしいが、なかでも高さ20mというこの像と神殿はその極め付けだという。神殿内部の彫刻もさすがにおもしろく、神を称える王の姿やアジア、ヌビア人との戦い、そしてその虐待ぶり、そうしたものが実に徹底して描かれている。
権力とはいつの世にも誇示することに憚りを知らぬ点で共通しているが、その誇示の基づく心理が自信であるのか恐れであるのかはともかくとして、エジプトで僕らが目にした幾つかの遺跡について、その徹底ぶりはひとつ大きく心に残るものではあった。

またこの遺跡、かつてアスワンハイダムの建設によるナセル湖の増水で水没の危機に瀕し、その時、保存のために採られた方法が話題の種となっている遺跡でもある。
色々の国が、例えば水面まで底上げするとか、浮かせるとか、そんな対応策を考えたらしいが、結局どこだかの国の、神殿全体を数限りないブロックに切断し、今あるこの場所でそのパーツを組み立てるという「神殿移転案」が採用されたらしい。よく見ると神殿は確かに縦に横に切れ目だらけである。呆れるほど大胆なやり方ではないか。
考えてみればエジプトの遺跡はピラミッドをはじめとして、全般に保存の状態は概して大雑束である。この神殿もコプト教の人々が住居に使っていたようで、神殿奥の神々をまつる都屋は天井がススで黒くなったりしている。割にそういう点、無頓着というかおおらかと言うか、文化財に対する考え方がどうなっているか全然知らないが、ケイコさんに「この岩はあそこの顔の部分が落ちて来たものです」などと言われてしまうと「くっつける気は全然ないのだろうか」などと僕はつい思ったりしてしまう。
そう言えばスフィンクスも首がやがて落ちることが分かっているらしいが、何でも「落ちたら修復する」とのことで今は手を付けずにおいてあるらしい。世界の有識者がそれなりの根拠をもってそうするのだろうが、日本人だったらどうするだろうか、そんなことをふと思い巡らせてみたりする。
帰りは神殿の内部を通ってみるが、なるほど土の山と思っていた中は空洞。何か分からないが大きな機械が据えられており工場のような体であった。

20:15、アブシンベルより再びアスワンヘ。22:00頃ホテルに着き、食事、入浴の後、疲れ果てて眠る、エジプトに来て熟睡できなかった日は未だない。


10月22(木):4日目


■自由行動

7:30ころ目を覚まし、9:20ころ朝食に出掛ける。今日は昨日までのハードスケジュールから解放され、午前中、12:00までまったくの自由時間が与えられる。ホテルの朝食を10:00までに済ませるように、というのが唯一の指示だったがツァーの何人かは寝過ごして食べ損ねたらしい。

気持ちの良い朝で、寝坊するにも散歩するにもこんな心地の良い日はないだろうと思われる。惰眠を貪りたい気持ちも多分にあったがそれも惜しく、食事を済ませた後まず土産物を少々物色しに出掛ける。
土産物屋の主人は割に鷹揚で、支払いにポンドがないというと、そこの銀行で両替して来いと、まだ代金も払っていないのに買ったものを袋に詰めて渡してくれる。鷹揚といってもTシャツ2枚(15ポンド×2)とエプロン3枚(11ポンド×3)が50ポンドという計算なので単にいい加減なだけであるのかもしれない。理由もなく10ポンド儲けてしまった心地よさに身も心も軽くなり、そのままホテル周辺を散策することにする。

散策と言ってもホテルの敷地を一周するだけなのだが、ナイル川中洲にあるホテルのこと、また以前よりリゾート地として人を集めて来たこの一帯のこと、景観はさすがに素晴らしい。
芝生が青々と敷き詰められ、そこここに赤い小さな花が咲き乱れている。樹木も熱帯らしい濃い緑を茂らせ、さんさんと降る陽の光にその影は濃く地に刻まれている。ナイルは青く豊かな水量をたたえ、白い鳥が川中の岩に群れてはまた水面低く飛び交う。白いヨットの帆、澄み切った空、心地よい秋の風。これ以上の何物も今は望む必要がない、芝生のうえで思いっきり手足を延ばして“一炊の夢”に酔ってみたい、実にそういう気分である。

一体に気候も良く、気温は日中35℃くらいあるのだが、特に暑さを感じることはない。日向にいると日差しの強さは確かなものとして実感されるが、日本の夏のようにじめじめしたいたたまれない感じは全くなく、木陰に入れば涼しい風が頬を掠めてゆく。旅行中汗をかいたのはピラミッドの玄室に入ったとき一回きりではなかったかと曖昧な記憶のうちに思う。
昼夜の気温の日較差もそれほどではなく、夜から朝にかけては多少肌寒いと言ったところである。感覚的にはちょうど日本の秋を思い出していただければよいのではないかと思う。からっとしてどこか透明な感がある。したがって、汗をかくだろうといって詰め込んだ下着類、寒いだろうと用意したセーター類も殆ど活躍する場はなく、いたずらに荷物を多くしたに過ぎなかった。ロシノワヅラヒトナレルコソワリナケレである。

加えて順子氏は、外国では正装しなければ入れないレストランもある、と言ってはネクタイやワイシャツを入れ、僕の着るものが貧相だ、と言っては自分で買って来た洋服を詰め込んだ。
だいたい僕は服を取り替えるということが嫌いで、わけても新しい服を着て歩くのはどうも好きでない。せっかく買って来たんだから着てちょうだい、という彼女の言葉を何とかして拒もうとするのだが、それを許してくれる彼女ではない。格闘の末、負けるのは決まって僕であり、不如意にも旅行中僕は3回も服を替えねばならなかった。
そんな具合でスーツケースはパンパン。出発の間際にスーツケースの蓋が閉まらず、ほとんど毎回格闘しなければならなかったのである。旅は手ぶらがいい。

■ルクソールへ=13:15

散策を終えて部屋に帰ってみるとかわいいメイドさんが来ていて部屋の片付けをしていた。くりっくりっとしたきれいな目でニコニコ話し掛けてくれるが、僕ははかばかしい応対が出来ない。相手の言葉を聞き取れずまごまごしていると、さすがに順子氏がさりげなく通訳してくれるが、一瞬の気後れが尾を引いて僕は言葉がなかなか口から出て来ない。
何故か持っていたミカンを「Japanese orange」とかなんとか言って彼女にプレゼントし、そそくさと部屋を出る。要するにうまくごまかしたのである。

12:00より昼食(鶏肉スープ、魚)。13:15にホテルを出てアスワン空港へ向かう。飛行機が遅れているということで、またうだうだと時間潰しをしなければならない。
オレンジジュースを飲み、クレオパトラというたばこを買う。オレンジジュースはおいしく、クレオパトラはうまくもなくまずくもない。山田氏は1600高感度フィルムを手荷物検査のX線でだめにされたと憤慨している。何かに付けこの人は賑やかである。
14:50のフライト予定が15:30となり、ようよう出発。途中飛行機が揺れ若干怖い思いもし、16:00にルクソール空港着。空港の出口にはタクシーの呼び込みの人が群れ、通るのに一苦労。通りすがりに“Japanese”というどこか冷ややかな調子の声も聞こえる。
そのままバスに乗り込むが荷物がなかなか降ろされずに、まただいぶ待たされる。見れば、ここは国際空港のはずなのに、飛行機から降ろした荷物を車も使わずに人が運んでいる。30分飛行機に乗るために3時間から4時間の空白の時間を取られてしまう。せっかちな日本人である僕は何かそれが惜しくてならない。

■ナイル川クルーズ=17:00

17:00にバスがホテルに着く(ルクソールシェルトンホテル)。
ホテルに着く少し前から夕陽が見えだし、ナイル川に今にも沈もうとしている。陽は赤く円状に燃え、辺りの物はその影を黒く浮き上がらせている。予定ではこの後、ナイル川のサンセットクルーズということになっていたので、一同、特に添乗員のウメヅさんは祈るようにして夕陽を見つめる。そんな具合でホテルに着くと同時に荷物を投げ出してクルーズに入るが、ヨットが岸を離れるのをもたついているうちにほとんど陽は沈みかけてしまう。

ヨットを操る親子は真剣そのもので、とりわけ子供が一生懸命クルクルと動き回っている姿が一同の目を牽く。日本で言えば小学校の高学年くらいだろうか、短いちぢれ毛に大きな瞳が何とも愛らしい。やっとのことでヨットが岸を離れると、ツァー一同、その奮闘に思わず拍手。親子もにっこりする。
舟中、皆代わる代わるこの親子と写真を取り、子供が照れて恥ずかしそうにする様子などクルーズの一興としてほのぼのと楽しむ。結局、陽はすぐに沈んでしまったが、30分ほどすると夕焼けがオレンジ色に空を染め、美しかった。満々と水をたたえるナイルは素晴らしく、舟が水を切って進むその音が何とも心地よい。対岸でサッカーに興ずる子供達の声が小さく響いて来たりもしている。少年時代の遊び暮れた夏の夕方のような、寂しくも心満ちたたそがれである。

■カルナック神殿、音と光のショー=20:00~21:30

19:00、部屋に荷物を運び入れた後、夕食を取る。
ホテルの部屋は新築というだけあってこざっぱりとして気持ちが良い。ただ既に泊まった二つのホテルのような豪華さはなく、構造から配置から日本のビジネスホテルと全く同じものである。勿論それで不足などあろうはずはない。むしろこじんまりとしたこんな部屋のほうが性に合うなどと思いつつ夕食を食べに外へ出る。
ホテルの前庭、プールサイドでの夜空を見上げながらの食事である。各種、色とりどりの料理が並べられ、辺りに鶏と羊を焼く匂いが立ち込めている。酒などたいして好きでもないのに、思わず焼き鳥のあの香ばしさを思い出し、日本酒を飲みたい衝動に駆られ、あるいは連想が日本の駅裏の小路の一杯飲み屋に及んでしまうのは妙な事である。

皿を持ち浮き浮きした気分で気に入った料理を取って行く。
肉、野菜、果物、パン、ケーキ、ジュース、何やら正体の分からぬ料理まで、とにかく皿にのせてゆく。ホテルでの食事はコースよりもこうしたバイキング形式であることが多く、実際は学食や社員食堂のセルフサービスとたいして変わらないに違いはないのだろうが、何となく優雅な雰囲気に引きずられて異常にたくさん取り過ぎてしまう。言わばrichな気分なのである。
皿に盛れるだけ盛り込んでテーブルに戻る。衝動的な欲望の所産であるこの大盛りの皿は、しかし人の視線を感じるとさすがに気恥ずかしいもので「ちょっと取り過ぎたかな」などと照れてみせると、先に戻っていた仲間も自分の皿を指さして「やあ、僕も貧乏性でね」などと笑う。

やがて順子氏が戻って来たが、この人の皿もやや大盛りである。安心する。しかしこうして手に入った料理も、いざ箸を付けるとなかなか食は進まず、結局半分以上も残してしまう。オリーブ油が舌になじまないせいもあるが、禅智内供のごとき寂しき性のためであるかも知れない。
昔から“ごはんを残すと目が潰れる”としつけられて来た僕はボーイに怒られはしないかと気がかりでならなかったが、順子氏は果敢にケーキを取りに行き、5、6種類のケーキを持って戻って来る。最初は僕に半分とナイフで丁寧に切っていたが、僕が要らないと言うと全部一人で食べてしまう。驚嘆。敬服。脱帽。

17:40頃、カルナック神殿の音と光のショーを見に行く。ピラミッドで懲りているはずだったが、今度はおもしろいのではないか、と甘い期待を込めて出掛ける。そういう言い方が既に良からぬ結末を意味していることは明らかだが、順子氏はこの時もケーキに力付けられたか元気である。眠い、眠いとボヤきながら歩いている僕をだらしがないと罵ったりする。僕はただただ眠くてかなわない。
神殿自体は素晴らしいもので、今まで見たどの遺跡よりも凄い、と順子氏も遠藤女史も感心している。明日の見学コースに入っているので詳細は保留としよう。ショーは最初に歩いて40分、2、3百人の人がぞろぞろと歩いては、神殿の所々で止められて英語の説明を聞く。よくわからない。
それから座って30分ほどのショーとなる。座って間もなく遠藤女史がうとうとし始める。つられて僕も熟睡の状態に入る。ふっと気が付くとショーは既に終わりに近付いており、だらしがないと僕をなじっていた順子氏も見れば眠っている。

22:00、ホテルに戻り、完璧に眠る。

さて、遅ればせながらこの辺りでツァーの面々の紹介を簡単にしておこう。
我々のツァーは全員で15人、添乗員の梅津さんとガイドのケイコさんを含めると17人。割とこじんまりとしたツァーである。
梅津さんは前に紹介したように僕と同い年の竹内まりやに似た独身女性。
ケイコさんは、ケイコと書いてあるからといってハーフなのではなく、日本で大学を出た後単身でエジプトに渡りアラビア語の勉強をしている純粋な日本人である。生活の資を得るためにこうしてガイドの仕事をしているらしい。うろ覚えだが、エジプトに来てもう4、5年になり、あと1、2年で日本に戻りたいと言っていた。もうアラビア語もペラペラ。非常に優しく、独身。この二人とも仕事、人生に強く志を持つ意志的な女性である。

15人の面々の内訳は、5組10人が新婚カップル、男3人のグループがひとつ、あとの二人はそれぞれ男と女の一人旅である。もう少し詳しくそれぞれを見てみると、

Ⅰ:新婚組
 ◎会津弁の賑やかな福島の本多夫妻(旦那さんが自分のビデオに一度も奥さんを映さなかったという)
◎夫婦とも とても優しそうな栃木の横田夫妻(奥さんは保母さんをしている)
◎よく食べる京都の山田夫妻(食べるのは旦那さんの方)
◎相撲の桟敷で知り合ったという東京のこれまた山田夫妻(旦那さんは医者である)
◎それに僕ら。

Ⅱ:グループ
小田原から来た後藤、西山、萩野、各氏の男三人連れ。非常に賑やかで行動的。最終日にこの三人の発案でお別れ会?が催される。中にはエジプトへ行きたいので休暇が欲しいと会社で申し出たところ、ダメだと言われたので会社を辞めて来たという過激な人もいた。

Ⅲ:一人旅
 ◎男の一人旅は神戸の山田さん。五人目の山田さんの登場ということになるが、この旅行記にしばしば登場する山田さんとは実はこの人のことである。世話好きで話し好き、世慣れているが、どこか一歩みんなのリズムと合わないところがある。人間が20人ほど集まると、こんな人が必ずいる、そんな人である。無論、人は良い。会計事務所に勤務。
◎女の一人旅は千葉の遠藤さん。東京でデパートに勤めている。ツァー中、最年少の22歳であり、確かに一番“今っぽい”雰囲気をどこかにもっている人だが基本的に優しい人である。

以上がツァーの面々の顔触れ。ほとんどの人が20代後半で30代は一人ではなかったかと思う。若いメンバーである。これだけ同世代が集まればさぞ賑やかではなかったかと思われるかもしれないが、新婚が多いせいかそうはならなかった。
僕らが親しくした人もそう多くはなく、山田さんと遠藤さんくらいが主なところである。この二人、一人旅の男と女、仲良くなると良かったのだが、山田さんは他意なく親しげに話し掛けても、遠藤さんがそれに乗って行こうとせず、やはりなかなかうまく行かない。お互い初対面なのであり、山田さんの(その良さが割に理解されにくい)独特な個性を考えると、彼女にしてみればそれは無理からぬ対応ではある。
順子氏が目ざとくそれを見付けて僕に教えてくれるが、空港のロビーなどを歩いている様子を後ろから見ていると、なるほど彼が彼女に話し掛けようとそばに寄って行くと彼女のほうはスッと逃げるように彼をかわそうとしている。山田さんはそういう彼女の反応にまるで無頓着なのである。
そこで順子氏が彼女の気を紛らわせようと彼女に話し掛け始め、やがてお互い話し相手となってゆく。そこで必然的に、山田さんと僕らの距離もちぢまって、ここに4人で行動するパターンが出来上がった訳である。縁は異なものというが、誠におもしろいことである。


10月23日(金):5日目

■モーニングコール=7:00

朝5:00頃に目が覚め、うつらうつらしていると、6:00頃起き出した順子氏が体調の不調を訴える。腹痛らしい。それ見たことか食い過ぎだと思ったが、僕も昨夜からなんとなく調子がおかしいので二人して何かに当たったと思われる。
他の人は元気だったので二人しか口にしていないものということになるが、思い返してみても“これだ”と思い浮かぶものはない。強いて記憶をたどってみても、昨日空港で飲んだオレンジジュースと一昨日ナイルの岸で飲んだ生ぬるいミネラルウォーターが思い出されるくらいである。

後でよく考えて見ると、生野菜は平気で食べていたのだし、生水は飲まないようにしていたものの、歯磨きやうがいでは割合無頓着に水道の水を使っていたのであって、腹痛つまり下痢の原因は至るところにあったわけである。
ツァーの面々も決して十分に健康であったのではなく、時期を異にして殆どの人が食あたりを経験していたらしい。僕らの症状が一番悪かったことは確かであるが。順子氏の容体ははかばかしくなく、むしろかなり悪い。僕は彼女ほどでもないので彼女はきっと僕に隠れて変なものを飲み食いしたに違いない、と僕は思う。

7:00にモーニングコールがある。7:30より朝食。事情を話し朝食の席に遅れてつくも、順子氏の体調は依然よからず、紅茶を口にできたに過ぎない。トイレにたち、また上からももどしてしまう。
ロビーでしばらく休んだが治らず、午前中はともかくも休ませてもらうことにし、梅津さんに無心して部屋をとってもらう。他のツァーの面々は心配そうに声をかけてくれたが(このとき初めて例の山田さんでない山田さんが医者であることを知る)、日程に従ってバスに乗り出発。王家の谷、ツタンカーメンの墓など見にでかける。
僕らはそれを見送って部屋に戻る。順子氏は再びベットに入り、すぐに熟睡の状態。やがて僕も手持ち無沙汰のままベットに横になる。おぼおぼとした意識の中で、こういうときに妻の看病を必死にする夫のことが美談として語られているのを思い出し、ひとつ僕もやってみようと、毛布をかけ直してみたり、頭を小突いてみたりするが、順子氏はグースカと寝ているだけで手応えがない。看病しがいの無い病人だと思う。
仕方なく再びベットに横になり、惰眠の態勢。しかしあれほど乞い願っていた惰眠も、それを味わうだけの鋭い感覚が正常に働いていなければ価値はほとんど無いに等しい。僕のからだの状態も決して良くはない。残念なことである。

何か気を紛らすものでもあればと改めて部屋の中を見渡すが、特に何もない。テレビが一台置かれているが、とても見る気になれない。
私が苦しんでいる間一体あなたは何をしていたの、などと後から言われてはかなわないし、言葉が分からないのではすぐれない気分の慰めにはならない。昨夜二人で見たテレビでは、あれがエジプト風の美人なのだろうか、少々太めの目が大きな女優が悲しみにくれる女主人公の役を演じていて結構おもしろかったが。
だいたいエジプトのテレビというのは局が三つしかないのであり、従ってチャンネルも三つしかない。その上、一日中放送しているのではなく、一番長い局でも朝、昼、晩の三回、併せて10時間ほどの放映時間しかない。短い局になると晩(だったと思う)の2、3時間しか放映しないのである。
チャンネルを回してもジリジリとしか言わないテレビを見てもさほどおもしろくはなかろう。おぼおぼと順子氏の方を見ているうちに僕もいつしか寝入ってしまう。

12:00に一行は戻って来たようで、梅津さんが部屋に様子を見に来る。順子氏はそのまま部屋に残り、僕は昼食を食べに行く。皆は王家の谷の様子や暑かったことなど話してくれるが、僕の体調もかなり良くなくなっていて、興味をそそられる所まで頭が働いて行かない。形ばかりに箸を付け、順子氏の分の昼食を持ち部屋に戻る。順子氏はプリン一つだけを食べ、再びベットに。
15:00までそのまま休むことにし、僕もベットに入る。今度はすぐに意識がなくなってしまったが、目が覚めた頃からひどい腹痛に襲われ出し、横になっているとさほどではないのだが、動こうとすると途端に便意が催される。そのたびにトイレ。無論、超特急。尋常ではない。閉口(下は閉まらねど閉口とはこれいかに)。
しかしいつまでもここで休んでいるわけにはいかない。夜にはカイロに出発する予定になっているのである。オイテキボリは困る。順子氏も何とか大丈夫だというので、意を決してヨタヨタしながらカルナック神殿の見学に合流する。

■カルナック神殿=15:30~16:30

昨夜訪れているので二度目の訪問ということになるが、何度見てもこの遺跡の大きさには驚嘆しそうである。とにかく壮観。カルナック神殿と書いたが、このカルナックにはラムセス三世神殿、トトメス三世神殿ほか幾つかの神殿があり、今ここで驚いているのはとりあえずアメン神殿という大神殿のことである。

羊の頭をいただいた小さなスフィンクスが並ぶ参道を通り、第一塔門、第二塔門を進んで行く。参道に立った時から、塔門はのしかかって来るようにそそり立っており、門の幅は12mと広くしかも天井がある訳でもないのに、どこか狭い穴の中に入って行くような妙な感覚にとらわれる。塔門も、塔門の間にある中庭も世界最大。この威圧感はたいしたものである。
更に歩を進めると高さが23m、15mの二種類の巨大な柱が134本も立ち並ぶ大列柱室に出る。アガサ・クリスティーの“ナイル殺人事件”の舞台にもなったことがあるそうだが、このバカデカイ柱の陰でなら一日中かくれんぼをしても、殺人ごっこをしても、決して飽きないだろうと思われる。

天井を見上げると、それぞれの柱の柱頭には赤や緑の塗料で彩色された様子が残っており、往時のこの神殿の華やかさを偲ばせている。かつては神殿は天井が張られていたのだろうが、今は柱の先に青空が見えるだけとなり、ニョキニョキと立っている柱群はむしろ枯れながら立つ生き物のように無気味である。そしてそれがまたこのホールの空間に不思議な深みを与えているようにも思う。
しばらくここで写真など撮った後、更に神殿の奥に進み、オベリスク、聖船を見て聖なる池にまで至るが、神殿は至るところ崩れた岩がごろごろしており、復元途中であることを窺わせている。復元作業は既に100年間にも及ぶらしいが、この神殿は2000年に亙って建造と改造が繰り返されて来たものであって、そうした複雑さが修復の作業を困難なものにしているということである。
例えば、至るところで前の王の名を消して自分の名をその上に彫り込んである壁を見ることができる。王の名の部分だけが壁面から引っ込んでいるのでそれと分かるのである。もはや神の威光とも無縁な神殿だが、積まれている瓦礫の山や廃墟としての姿にも、信仰や権力、時の流れ等さまざまな歪みが写し出されているようでおもしろい。おぼおぼとした頭の中でそんなことを思う。

さて、歩を進めて行くと最後に、聖なる池の近く、フンコロガシの像が立っている所に出る。フンコロガシという虫は、そのフンを転がしている姿が太陽を転がしているように見えるところから幸運をよぶ虫として扱われているのだという。この像を3回まわると幸福になれ、7回まわると結婚でき(中略)40回まわると離婚できるという。
早速ツァー中、主に独身者が7回まわりに挑戦。既婚者は十分すぎるほど幸せなのか、あるいはその振りをしているのか、あるいは40回まわるのが単にしんどいだけなのか、皆、その様子を遠巻きにして見ている。僕も順子氏もその仲間である。

離婚=40回、これを最後にオチとしてくっつけたエジプト人のユーモアは、なかなかよい。適わぬ願いに対する憧れをいま仮にロマンと呼ぶとすると、人間の最大のロマンが離婚にあるというわけではないが、“日常”をある意味で端的に象徴する“結婚”からの解放には確かにささやかな甘いロマンがあってよい。
その、一種不純なロマンのためには、しかし誰もが本気で40回フンコロガシをまわる労力を厭うのであって、それを思うとその40という数字が実に微妙におかしみを誘うのである。
ただ、僕がフンコロガシをまわらないのは、そうしたロマンの甘さを拒否しようとしているからなのではなく、単に下痢ではかばかしく身体を動かすことが出来なかったためである。順子氏もまわらなかったが、彼女も同様の理由であったろうと僕は思う。
下痢でフンコロガシをまわれないなど全く洒落にもならない。

■ルクソール神殿=17:00→ルクソール駅=18:30

カルナック神殿を後にしてルクソール神殿へ向かう。
ルクソール神殿も大きな遺跡だが、カルナック神殿を見て来た目にはどうしても見劣りがしてしまう。塔門の前のオベリスクの一本がパリのコンコルド広場に置かれていること、コプト教の人達が神殿の柱を切ってその柱で神殿内に自分達の集会場を作ってしまったことなどケイコさんの話として印象に残る。
神殿の一番奥まで足早に進み、なるほどなどとつぶやいてそのままとんぼ返りする。微熱があるのか足が地につかない感じがあって、フラフラフラフラと歩いている。
バスでホテルに向かい、少々の買い物をする。買い物の途中でケイコさん、梅津さんと一緒になり、彼女達のほとんど強引な交渉のおかげで70ドルの香水瓶を30ドルで手に入れる。スークなどでは値段はかなりいい加減で掛け合い次第でかなり値が下がることがあるが、ここはホテルに接した素性の明らかな店であって、悩む店主に食い下がってその品を半値以下にしてしまう根性はやはり凄いと言わなければならない。女は強し、と僕は思う。
再びバスに乗り、18:30、ルクソール駅へ。ここから寝台に乗り一晩揺られて僕らはカイロに戻ることになるわけである。つまり今夜は車中泊。

カイロについた日に見た電車がすごいものだったので、一体どんな電車に乗せられるのだろうと思っていたのだが、車内も清潔で割合に立派なものだった。寝台といえばCクラスの、向き合わせに三段づつになっているベッドの、しかも何故か一番上でしか寝たことがない僕としては、一つの部屋に二段のベッドしかないというだけで幸福な気分にもなろうというものだ。
ただ体はもう休みたがっていて、夕食が出ても殆ど食べることができず(どうしたことか料理のどれも、つついてみるとジャガ芋だった)、ベッドが用意されると一、二時間とにかく休もうなどと言って横になったきり二人とも朝までぐっすり寝てしまう。2、3度目を覚ましはしたが列車が揺れて眠れないということもない。下で寝ている順子氏を覗き込むと、やはりグースカと寝ている。彼女は乗り物に弱い体質でしかも食あたりの真っ最中・・などと一応は僕としても心配するのだが、まことにその甲斐のない寝顔なのである。天衣無縫。あるいは傍若無人。


10月24日(土):6日目


朝、5:30に目が覚める。ふと目をやると、小さな川が線路のすぐ脇を流れており、電車は農耕地帯、緑地の中を走っている。窓から白んでゆく辺りの景色が見え、三々五々川原に集う人々の姿も見える。やがて朝日がゆっくりと上り始め、空がくすんだオレンジ色に染まり始めた。ゴトゴトと揺れる電車の響きも良く、いかにも旅の朝らしい朝である。
順子氏も起き出してそうした光景を一緒に見るが、二人とも多少は回復して朝の気分はかなり上の部類といってよい。

しばらくして朝食が出される。が、ゆうべからそれだけを楽しみにしていたコーヒーもなく、パンとマーガリンがブリキの皿に乗せられているだけの食事。落胆すること甚だしくほとんど手も付けずに置いてしまった。
片付けに来た乗務員もいたって事務的で表情ひとつ変えずにそれを下げて行ったが、すぐ後でもう一度顔を出し、ふいにチップの要求をしてきた。“チップは一括して払うのでそれ以上払う必要はない”という指示が梅津さんから出ていたので、それはおかしいなどとゴチャゴチャ二人で言ってみるが、乗務員はドアのところに立ち、やや当惑した顔でこちらを見詰めたまま動かない。
仕方なく財布を出して中を覗いてみると、困ったことにこまかい金が見当たらない。1ポンド札はあるのだが、ピアストル紙幣がないのである。

チップの相場はだいたい50ピアストル以下?。部屋を出るときメイドの為に枕の下にしのばせるチップ〈いわゆる枕チップ〉が、50ピアストルだったので、その額をひとつの基準として僕らはチップというものを考えていた。
それで瞬間的に、あるいは本能的に1ポンド札を出すのがためらわれ財布の中をもう一度見直したりしてみる。金を人に与えるということが何かこざかしいことのように思えてチップというものにはなじめないのだが、同時に自分の金を意味なく人にやってしまうような気がして、何とも惜しいのである。
取り合えずいつまでも睨めっこしている訳にもいかないし、しかたなく1ポンドを差し出すと、乗務員は明るい表情で何かひとこと言って去って行った。なんとなく釈然としない思いが残ったが、チップがなければ生活が成り立たない人がいる、そうした状況を基本にしている社会に僕らは来ているのであると納得してみる。
しかし落ち着いてよく考えてみれば、しぶしぶ出した1ポンドは日本円にして70円、50ピアストルはその半分の35円なのである。一体何を悩んでいたのだろうと我ながら自分のケチぶりに腹が立ってしまう。

列車は5:30到着の予定が一時間半遅れ、7:00にギザ駅に着く。日本でこれだけ電車が遅れたら大変な騒ぎになるところだが、一時間半遅れたといっても誰も何も動じない。ケイコさんも、ツァーの予定に差し障りはありませんと説明する。つまり正常なのである。
聞くところによると、シベリアの田舎では時刻表を無視して汽車が走っているというし、南米のボリビアではそもそも時刻表というものがなく汽車が好き勝手に走っているという。それに比べればここは格段に正確と言わなければならない。“正常”ということは極めて相対的なものなのである。
とにかく無事に着き、どことなく見覚えのあるギザの町中を何となく懐かしく思いながらバスでカイロ博物館(エジプト考古学博物館)へ向かう。

■カイロ博物館=9:00・モハメットアリモスク=11:00

9:00の開館まで30分程の時間を外で潰し、開館と同時に中へ入る。ケイコさんの説明を聞きながら、剣や太陽の舟やミイラや装飾品などいろいろな遺跡から集められた物々を見、アジア人・ヌビア人の虐げられぶりやファラオたちの権力意識、古代エジプト人の未来観、果てはミイラの作り方に至るまで丁寧でやや淡々としたケイコさんの口調にのっかりながら観て行く。
目玉はツタンカーメンの黄金のマスク。僕は以前に静岡で実物を見たことがあったが、この金の艶やかさは何度見てもなかなかに良いものである。順子氏も、まるで見詰めていればそれが自分のものになるかのような真剣なまなざしで見ている。

ただ、僕は博物館、美術館の類いにはどうも相性が悪く、一時間もいると気が狂いそうになってしまう。どういう訳か分からないのだが、これまでも二人で美術館へ行くと僕は途中で脱落してロビーに座り、順子氏が一人で見て回るというのが大概のパターンであった。
昔から“愚者は博物館に行き、賢者は酒場に行く”というから、僕は恐らく賢者なのであろうと思う。そうすると順子氏は差し当たり愚者ということになるが、食あたりで今日は彼女もどことはなしに元気がない。
後に、おもしろかったかと聞くと、並べ方がゴチャゴチャしていておもしろかったと妙な感想を語ってくれたが、確かに展示品の数は豊富で、それらが割に雑然と置かれている。少ない展示品をジョウズに展示してある日本の博物館に比べると、比較にならないほどのパワーがここにはある。物はここでは、空間の中に置かれている物ではなく、全く物それ自体なのである。
順子氏は、あるいはその気で回ればまる一日暇潰しの出来るカイロで一番おもしろい所やもしれないと言い、帰って来てから、例えば猫のミイラなど、あれもあったこれもあったと、見逃したものを残念そうに指で数えていたが、その気持ちは博物館嫌いの僕には分かるようでもあり、またなかなかに分からないもののようでもである。

一時間半ほど見学し、最後の見学地となるモハメットアリモスクに移動する。
バス中、ケイコさんがイスラム教についての話などしてくれる。断食の月があるのだが、断食するのは昼間だけで夜はむしろ盛大に飲み食いするため、普段の月より食物の消費量は大きいとか、祈りの時間になると信者たちはどこにいてもメッカに向かって祈り出すんだとか、そんなもろもろの裏話である。

モスクは荘厳な石作りで、中心のドームの建物と尖塔をその外観として誇っていた。カメラに収めようと早速構えに入るがレンズの中の順子氏がびっくりした顔で慌ててそれを制止しようとしている。こういう顔もおもしろいと思い、シャッターを押すと順子氏は呆れた表情をしている。
写真を取ってはいけない場所だったのかと思ったら、カメラのキャップを付けたままだったのである。携帯したカメラはキャップを付けたままでもシャッターが下りてしまうものだったので、帰って来ていざ現像してみると取ったはずなのに存在しない写真が数多くあった。これも食あたりのせいだろうととりあえず言い訳をしておこう。

さて、このモスクは神聖な場所だということで、靴を履いて中に入ることが出来ない。そこで紐付きの袋を入り口で貰い、靴をすっぽり覆う(25ピアストル)。裸足でも良いということなので、ここぞとばかり僕は裸足になり、もたもたと袋をはいている順子氏を置き去りにして内部に進む。
石の冷たい感触が心地よい。内部は大掛かりなステンドグラスで装飾され、空間に吊り下げられているランプの並びがオレンジ色の光を淡く発している。全体が明る過ぎず、いかにも宗教的な雰囲気を醸し出している。



全くの尻切れトンボだが、「エジプト旅行記」はここで終わっている。何故ここで終わってしまったのかももう記憶にない。
当時、ワープロが急速に普及していた時期で、ウチでも10万円位もしたシャープの書院を購入して、僕は夜な夜なそれでも一生懸命これを書いたことは覚えている。カミさんには「全く私のことなんか相手にしないでワープロばっかりやって」とよく文句を言われたが、そんなことも何だか薄ぼんやりと頭の片隅で消えそうになりつつかすかに生き残っている状態である。

発掘したときは最後まで完結させてみようと思ったのであるが、同じ事情で、当然当時の記憶はかき消えており、あんなに一生懸命書いていたメモも捨ててしまったらしい。アルバムも見たが、モハメットアリモスクの2枚を最後に、あとはツァーの仲間からの帰国後の手紙が何通か貼られて、それで終了となっている。
まったく記憶を掘り起こすよすががなく、断念することにした。そう言えば、モスクの話から宗教のこと、旅のまとめとして異国としてのエジプトについて書こうなどと柄にもなく難しいことを考えて、しかしまとまらず、忙しさにかこつけて放り出してしまったのかもしれない。

ちなみにその後の簡単な足取りを記しておくと、このモスク見学の後、夕食はナイル川をクルーズする船の上で取り、ホテルに戻ってから、ツァーのみんなが一室に集まり、旅の終わりを惜しみながら自己紹介などして楽しい時を過ごしたはずである。

翌日は飛行機に揺られて帰るだけ。また20時間乗ったのだが、その記憶はない。オリーブオイルから解放されて、無性に寿司とラーメンが食べたく、その旨を伝えると、双方の実家でそれを用意して待っていてくれた。オヤジがちょうど実っていた柿を大量にくれたため、それをパピルスのお土産と共に職場で配ると、「これはエジプトの柿か?」などと言われたりもした。

そして御殿場での暮らしが始まった。あれから長い年月が経ったと思うと何だか不思議で仕方がない。もうひとつ思い出したことがある。下痢は日本に帰ってきて10日間止まらなかった。エジプトに行かれる方にはくれぐれも注意されたいと書き置いて、この、およそ何の意味があるか分からない旅行記を閉じることにしたい。

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