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第300話:AIの恋愛診断
学校というのは長期休みが明けると必ずそうしなければならないようにテストがある。休みを遊ばせないために。
というわけで、冬休みが明けてテストがあった。となると、それを採点しなければならない。
今年度から赴任した学校では「百問繚乱」という採点システムが採用されていて、当初それを拒んだのだが、どうしてもそれを使わなければ同僚との足並みが揃えられないプレッシャーから、節を屈して使い始めた。
確かに便利。
スキャナーで答案を読み込むと、PCのディスプレー上に生徒の字のまま転写される。無論、自動で採点してくれるのは単純な記号だけで、漢字やフレーズや記述問題などは画面を見ながらクリックして自分で採点するのだが、合計や正答率、平均点から偏差値まで見事なほどに一瞬で出してくれる。
しかし、どうしても馴染めない。
だいたい目がおかしくなりそう。ずっとディスプレーを見続けている目は可哀想なくらい傷んでしまう。
それから頭がおかしくなりそう。
画面上に現れるのは生徒一人一人の解答用紙全体ではなく、設問ごとの解答が切り取られてそれが人数分表示される。例えばあるクラスのある問を採点すると、その問の解答だけがズラーッと並ぶのである。まるで40匹のミミズが並んでいるみたいに。
確かに記述問題などでは採点基準がぶれにくい良さはあるが、流れ作業のラインの上で不良品をつまみ出すみたいに不正解にバツをつけ、並び替えて正解にマルをつける。
そう、これは「採点」ではなく「作業」だ、と。
個々の設問の解答の傾向はわかっても、生徒の「個」は全く見えない。かつてのように一枚一枚答案をめくりながら採点していると、否が応でも、その一枚の答案からその生徒が見えた。
こいつこの問題を捨てたなとか、相変わらずきたねえ字だとか、最近B子に振られたから落ち込んでるなとか、さすが素晴らしい整った解答だねとか、テスト中寝やがったなとか。
このシステムはそういう情報から僕らを乖離させる。だから、採点しながら、誰が頑張って誰が怠けたのかもわからないし、生徒に「僕どうだった?」と聞かれてもそれに答えるだけの印象が残らない。
生徒が頑張って書いた落書きもぼやきも、解答用紙の各設問の枠の中しか表示しないこのシステムに切り捨てられている。
「見る」とか「見える」ことは大事だと、こういうシステムに出会って思う。
「視る」ではなく、むしろ「眺める・目に入ってくる」とか、そういうことが案外大事なのだと。
多分それは「感じる」ということに近い。
僕らは何となく世の中を見ながら感じている。空気を吸っているとか、空気にアンテナを立てていると言ってもいいかもしれない。生まれた土地の空気、旅先の喫茶店の雰囲気とか、花の匂いとか。
人もそう。親の背中とか。何となくということがある。
恋もそう。古本屋とか図書館で書架を眺めながら一冊の大事な本に出会うように、ある日ふと恋人に出会うかもしれない。その時、惹かれるのは詳細な「データ」ではない。
AIはビッグデータの統計処理システムであって、膨大なデータを瞬時に処理してくれる。人間には及びのつかない能力。効率を考えれば、これを使わない手はない。ノーベル賞もAIに傾いた。
ただその時、生徒の答案の落書きのように排除されるものがあり、膨大なデータをもとにしていても抽出され、与えられたものであることを覚えておく必要はあるだろうと思う。
例えばAIの統計によるマッチングで知り合ったとしても、昔のお見合いと同じように人は出会ってからその関係を紡いでいくわけだから、それはそれで一つの出会いの形だろう。大好きで、「この人」と思って結婚してもいいことばかりがあるわけじゃない。
でも、冗談半分に生徒に「結婚前に恋人とAIの恋愛診断とか試して『過去のデータの統計上、最悪のカップル』って言われたらどうする?」って聞くと、何だか真剣に「う〜ん」と唸っている。
「お前たち、自分の『勘』を信じろ!」って言ってみるのだが、どうだろう?
■土竜のひとりごと:第300話