第96話:愛されること
3ヶ月に一度、床屋に行く。床屋は好きである。
何と言っても、あのシャンプーされているときの気持ちよさがいい。シャンプーをつけられて頭をゴシゴシもまれていると、頭が軽くなって、スッとどこかに持ち上げられるような感覚になる。あれが何ともいえない。
整髪料をつけながら、簡単なマッサージをしてくれるが、あれもいい。頭から首、肩へ段々に下りてくるのだが、頭がポコポコされ始めると、僕は思わず肩をもみやすいように体勢を整えてしまう。
ほんの少ししかやってくれないのが残念で、僕はいつも「もうちょっと、もうちょっと」と思いながらたたかれている。
床屋は疲れた心の特効薬(一応ダシャレである)である。
無論、マッサージもいい。貧乏な僕が滅多にいけるところではないのだが、肩こりのひどい僕にとっては、天国のようなところである。首をグリグリされ、肩、背中、腰を指圧され、足のツボを押され・・。
体の中で滞っていたものが流れ出す感じと言ったらいいだろうか。頭がスッキリし、肩は軽くなり、気分まで明るくなる。体の中を春風が吹き抜けて、命が再生されるような気がする。
カミさんも結構上手で、そこそこのツボも心得、新婚の頃は良くやってくれたのだが、今はあまりやってくれない。愛が摩滅してきたのだろうか。残念なことである。
その代わり(と言うわけではないが)耳の掃除をよくやってくれる。これもなかなかいい。
膝枕に頭を乗っけて耳を掻かれていると、何だか幸せな気分になれる。耳垢など取れても取れなくてもいいのだが、かゆいところを耳かきの先でつついてもらったりすると、何とも言えないほのぼのとした気分になる。
膝に頭を乗せて耳を掻いてもらっていること自体がいいのかもしれない。人の体温を感じて気持が安らぐ。
絶対に行こうとは思わないが、耳かきサロンにハマる男の気持ちはわからないではない。卑しい下心があるとしたら、それは論外だが。
自分でシャンプーしても、自分で肩を指圧しても、自分で耳を掻いても、これほどの気持ちよさ、安らぎは得られない。不思議である。
ノメーッと自分の全部を相手にゆだねて何かをしてもらっている。恐らくその感覚がいい。
徹底的に受け身であることが、何故かこんなにも快い。
人間は日頃、社会的に能動であることを強いられるから、時に受動であることがこれほど心地よいのかもしれない。あるいは受け身であることは人間にとって本来的に快の魅惑的な何かなのだろうか。
「する」ことと「される」ことの間に転がる不思議を僕はふと思ってみたりする。「愛すること」と「愛されること」はどうだろう、とこれもふと思う。
あなたは愛したいか?愛されたいか?
そう尋ねられたら思わず首をひねってしまう人は多かろう。
愛することが能動で、愛されることが受動と言ってしまうのも、愛というものの不思議の中では、あまりに短絡的な気がしたりもする。それは微妙なことである。
■
さて、意味不明な前置きが長くなったが、息子がまだ小学校1年生の頃、こんなことがあった。
風呂から出てきた息子はカミさんの切ってくれたグレープフルーツを食べていたのだが、最後の三房くらいを残して食べるのをやめてしまった。
「食べないのか」と聞くと、
「お母さんにあげるの」と言ってニンマリとしている。
父親である僕にはいたって冷たいくせに、母親であるカミさんにはエラク優しい。父親としては何だか寂しかったりするわけだが、とにかく息子はカミさんの喜ぶ顔を思い浮かべて、それを楽しみに、ウキウキしながら、カミさんが風呂から出てくるのを待っていたのである。
ところが、風呂から上がってきたカミさんは、それを息子が食べ残したと思ったのだろう。いきなりテーブルの上を片づけ始め、息子の愛のこもったグレープフルーツも、手に持つと、そのまま台所に持っていき、生ゴミ入れに「ポイッ」と捨ててしまった。
一瞬の出来事だった。
息子は「あっ」と言い、それから突っ伏して泣いた。
悲しみというのはこういうものなのだろう。息子はテーブルの下に潜り込んで、もぞもぞと泣き、そこからなかなか出てこようとしない。何か訴えたいとは思っても、それを言葉にすることができない。
何が何だか分からずにいるキョトンとしているカミさんに、僕が事情を説明すると、カミさんは慌てて台所に行って、生ゴミ入れのフタを開け、一度捨てたグレープフルーツを取り出してきて、泣いている息子を膝に抱き、「おいしいよ。ありがとう」と言いながら食べたのであった。
母親とは無限の愛をたたえる器のようなものである。
愛されることもまた大変なことであると思ったりした、ちいさな、ちいさな、出来事である。
■土竜のひとりごと:第96話
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?