3日目、ロミジュリ、どうしようもなさ
濃厚接触者生活3日目。36.5度。特に体調に変化はない。
昨日、抗原検査で陰性だったので、今日も陰性であれば、陰性であった時点から日常生活に戻れるというのが国の現在の規定だ。一方で、医療関係者の話によると、濃厚接触者の待機期間が終わる頃に発熱する人が多いので、できるだけ自宅待機しておいた方がよいということ。どっちを優先すべきか、とそれも全て自己判断になるのだけど。
しばらくは外出行動する直前に抗原検査して、陰性であれば動く、ということにできたらと思う。
感染した家族は症状が軽いので、時間を持て余している。とはいえパソコン好きなので、一日中籠もってなにかこそこそやっているよう。仕事がはかどっていいかもしれない。
いつもニコイチで行動している二人が、陰性、陽性にわかれてしまって、その間に挟まれている。ひとりでいるということに調子がつかめない二人を交互に観察していると、なんだかロミオとジュリエットみたいだ。ウイルスによって否応なしに二つの世界に分断される。絶対に会っちゃダメって言われる。そんなこと今の日本においてまあ、そうそうない。あるのかもしれないけど日常的には同類の人々が集まる仕組みになっているから気づかないだけかな。そもそも出会わない仕組みになっている。(これもどうかと思うけど。)
ロミオとジュリエットは身分違いの恋と勘違いされることが多いけど、身分としては完全に同等。時代とか歴史とかしきたりとか、宿命のライバルとかなんともしがたい理由によって阻まれているということなので似ていると言えば似ている。なんかそういう解釈の作品もあったし、シェイクスピアの時代にペストもあった。
そう考えると、一個人の感情や想い的なものって世界のしきたりに比べたら社会的や歴史的にはちっぽけに扱われることがおおい。それが極まったら戦争につながる。だからこそシェイクスピアはもちろん、演劇だったり、映画とか、創作物は、人の心を動かしてどうしようもなさとか、悲劇的なこととか、人間らしさとかを伝えることができるんだろう。平和のためには人の感情をなだめたりすかしたりすることだけでなく、あたたかい心を取り戻すことができるんじゃないかな。