となりにいてくれると呼吸ができるひと
となりにいてくれると呼吸ができるひとは得がたい。そういうひとがなんにんもいてくれるといい。もちろんひとりでもいいけど、何人かいてくれると一人の人だけに負荷をかけずにいられるから健康じゃないのかなとおもう。こどもがいると大変なことが多いと思うのは、時期まで親が唯一無二の存在だからかもしれない。唯一無二は嬉しくもあると同時に、背負うと負荷がかかる。
かつてわたしも「私にはこの人しかいない」というような濃い関係性に憧れていた。この人だけいてくれたらなにもいらないとか。恋愛でありがちだけど、それはお互いの心持ち的なバランスだったり最低限は相思相愛的な相手でもない限り手に入れることはできないし、私の前にそう言う人があらわれることはなかったのは今になってみるとよかったのかもしれない。それに人の心はゆらぐ。だから家族を維持するために、結婚という契約で約束を強固にしている。そういうことから、なんせ家族は濃くなってしまいがちだし、一緒にいることは相応のリスクもある。家族ってなんだろうって思うけど、セーフティネットでもありうる。天涯孤独だとすればきっと家族がいるというだけで幸せなんだろう。
私は誰かを大切にすることができないとずっと思ってきた。最近自分を大切にしていなかったのが原因かもしれないと思っている。唯一無二でありかつ、一生を終えるまで離れることができないのはたった一人、自分だけだ。その自分を大切にする力を磨くことにもっと力を注いだ方がよかったのじゃないかと。外から見たらわがままといわれるかもしれない。だけど、それでもかまわない。身勝手だとか、自分のことしか考えていないと言う人は、その人がそう生きられないという嫉妬心からなのかもしれない。自分を傷つけてまで守るものは、そんなにない。それこそ子供のためだったらかまわないかもしれない。愛するもののために自分を犠牲にすることはあるけど、愛するものに出会ってもいないのに、自分を愛する能力を磨くことを怠けてどうするんだ。人の目線や世間を言い訳にした、自分に対する裏切り行為だ。裏切りと言う言葉がちょっときついのであれば、好きな自分に育て上げる努力を怠っている。努力は自分を愛するためにするものだ。自分を愛することをおざなりにして、誰かを愛することはきっとできないし、どこかで行き詰まる。それに自分を愛することは人を愛することよりも難易度が高いかもしれない。献身とか自己犠牲とか、それってそういう自分が好きだと言う信念のもとにやるもので、相手のためと言いながらも実は自分のためだ。そうじゃない限り、偽善だ。相手のためによかれとおもってすることは、たいていにおいて悪いと思ってやるくらいでちょうどいい。全部自分のためだ。それでも良かれと思って調子に乗ってやってしまったり、ベラベラとしゃべってしまったりするんだけど。お調子者だね。
どうやってアウトプットするのが相手にとってお節介にもならずに、ほどよきときに提供できるのか、欲しいと思う時にそっと差し伸べられるハンカチになれるのか。それはこれからもこれまでも課題。
となりにいてほっとできるひと。その人のまえでは無理もせず、べつに言葉を発することもなくただそばにいられる人。そう言う人の存在は、近くにいたら最高だし、遠くに居ても存在だけで心強い。今日も元気で生きていてくれますように。LOVEXXX