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混ぜられたことのない境界線について

古典戯曲を読むと、構造の骨組みがみえるようになってくる。
そもそも演劇は西洋音楽と同じで日本にはない文化だ。いまでこそクラシックとかを嗜む文化やある一定層のファンがいるけど、それでもやはり、日本に移植され尽くされてはいない。日本において演劇は発展途上中でまだまだ新しい文化だとも言える。日本人が作る演劇は、西洋の演劇とは確実に違うはずなのにまだ日本の演劇は移植途中だ。
韓国ドラマを見続けて感じたことは、日本は文化を混ぜ合わせることが苦手なのかもしれないということだ。あっちの文化、こっちの文化、と境界線を引き続ける。うちとよそはちがうもの。そのことによってウチを守る文化がある。閉じられた世界なのかもしれない。それは唯一戦争で植民地化されたことがない国というのも確実に影響している。混ぜられたことのない強固さと脆弱さ、地産地消にこだわり、オリジナルであろうとするために他者を排除してしまう。そんなことを思った。
それは私個人のことでもあるかもしれない。境界線を引き続け、情報を整理することで安心を得ている。そしてグレーゾーンの段階を見過ごしているということじゃないかな。線を引き続けることは整理できるし、システム化しやすい。四角いマッチ箱のような住居に、オートロックで分離するウチとソトの世界。かつての文化があることに蓋をして、とりあえずそのまま受け止めることは得意だ。例えばアメリカの資本や核のもとで生き延びるために合わせてきた。あわせることができるのが日本の利点でもあり、弱点でもあった。
これからはあわせる必要はないのだと思う。円がどんどん力を失っている。経済優先の価値観が日本を繁栄させ、そしてこれからはこの価値観からのがれられない人たちがふるいにかけられる。
経済は大切だ。そして経済に奪われた文化もある。
ここで自分はどう生きていくのか。
最終的には日本人という枠で安心を得ている。
そして、これからもきっと私はひとりでこの生活を営んでいく。ひとりでも生きていける社会システムがあればいいなと思う。ひとりで生活できないから誰かといるのではなくて、幸せになるために家族がいたらいい。

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chirico kaworu
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