情報とおしゃべり
生活していると否応なく情報がやってくる。
国会図書館とかはいままで出版された書籍がすべて保存されているそうだけど、それ以上に多くの情報がこの画面にはあふれかえっている。
書籍となるための文章は選別されている。だけど、この画面に打ち出されている文字に規制もルールも存在しない無法地帯だ。情報になっていない言葉の羅列。おしゃべりと独白。
ルールがあるとすれば、その文章を発信する人の倫理観だ。
ここまで文章にして、ふと首まで土に埋められて、ひたすらしゃべり続ける人の姿が浮かんだ。ベケットの「しあわせな日々」のウィニーだ。
首まで埋まってしまっているので手も足も動かない、唯一できることといえばしゃべることと食べることだ。
眠ることも食べることもできるので人間の三大欲求のうちできないことは生殖行為だけということだ。夫はいるのだけど、要するにこの夫婦にそういうことはないっていうメタファーでもあるのかもしれない。
生殖行為もしなくても、人は生きることはできるってことだ。ご飯を食べられずに眠ることもできなければ死に至るけど、性的欲求を満たさなくても死ぬことはない。もしかしたら死ぬ人もいるのかもしれないけど、ただ生きることはできるといえる。生きるだけで精いっぱいという人も山ほどいる。
ご飯を食べて、お布団に入って眠る。それだけで十分なのだ。
だけど、おなか一杯にご飯を食べて、お布団でねむることができるようになったら、今度はそれじゃ満たされなくなる。
もっともっとと多くを求めて満たされない強欲のほうが、リアリティがある三大欲求のひとつじゃないかとさえ思ってくる。
情報と、知識とか、そういう便利なものを手に入れてしまった代償として、人を愛することを見失っているように感じている。
人を愛するってめちゃめちゃ面倒くさいし、まったく合理的じゃない。
その合理的じゃないことがなんてすばらしいんだって、フランス人じゃないけど声高に言えないって、ちょっとおかしい。
情報のほうがお金で換算できるから資本主義社会には大切で、愛することはお金に換算できないから社会には大切じゃないって理論が成り立ってしまう。
そんな世界っておかしい。