うつ病になりかけたときのこと
こんばんは。すがわらかえでです。
投稿のペースがとっても不定期でごめんなさい。
これほどゆるりと書いているnoteですが、スキをしてくれる人がいるということに、大変に嬉しく思い、大きな感謝をお送りします。ありがとう!がんばれます。
前回の投稿で、すこしばかりうつ病のはなしに触れたので、今回はこれを中心に話したいと思います。長くなります。
きっかけとはじまり
うつ病になりかけた(医師からの診断はありません)のは、2018年の2月でした。ちょうど、大学3年生の春休みに入ったころです。
私の通っていた大学では、3年生の前期からゼミの演習がはじまり、後期から卒業論文に取り組み始めます。(前期で履修する演習の授業は最低2つで、そのなかからゼミを選びます!)
私は演習の授業として、社会学の授業と美術・デザイン系の授業を取りました。全く違う分野の演習をとることになったのですが、社会学の方は、縁のある土地を調査したい、地方について学びたいという想いから。そしてもうひとつの美術・デザイン系の演習は、先生がとても気の合う人で、美術についても昔から興味があったから。
私がうつ病になりかけたのは、社会学のほうの演習をとったのがきっかけ(?)でした。
私が所属していた学部は2つの学科に分かれていて、一つは主に社会のしくみや政治・経済、国際情勢などについて学ぶ学科です。もう一つの学科は、国の文化的なものについて学ぶ学科です。私は後者に属していたので、社会的な事柄について学ぶのは演習が初めてでした。
また、私の学科から、もう一方の学科に属する演習を履修する生徒は珍しいことなので、同じ演習を取っていた生徒はみんな社会的な学問に触れてきた生徒たちでした。
スタート地点から遅れをとっていた私は他の生徒よりも努力が必要でした。当時は新しい学問を知るということも楽しかったので、「やってやる!」という気持ちが大きく、本当にできるかどうかや、どれほどの努力が必要なのかはあまり真剣に考えていませんでした。
実際に演習が始まってからは、深夜まで研究室でみんなと話し合いをしたり、毎日遅くまで本を読んだりしました。深く理解できていない部分を理解することでいっぱいいっぱいで、なかなか前に進んでいるという実感が得られない苦しさと、その理解を今目の前にある事象に落とし込み応用することができない自分へのもどかしさですごく辛かったのを覚えています。
ただ、演習では私の他に2人の生徒がいて、彼らと支え合い助け合って学ぶことができたので、苦しみにのまれることはありませんでした。
前期が終わり、後期から始まる卒論研究のゼミを選ぶ時、先生からは、美術の方のゼミに入ることを勧められ、社会学はやめた方がいいのではと言われました。
私は決して勉強ができるというわけではなかったし、卒論になればもっと大変になるということを先生はわかっていたからです。
しかし、私は縁のある地を調査したいという気持ちを諦めきれずにいましたし、ここでやめてしまったら負けだ(自分にも先生にも)、という負けず嫌いの性もあって、先生の反対を押し切って社会学を学び続ける道を選びました。
こういう時の負けず嫌いは、本当に良くないのです。
1人での戦い
演習の時は私を含め3人で授業を受けていましたが、結局残ったのは私1人だったので、ゼミは先生と私の一対一で行われました。
私一人に質問が集中するということと、理解するために相談や話し合いをする仲間がいないということ、そしてなにより、休憩時間も先生と二人きりという状態で休憩がもはや休憩ではなかったということが、私を苦しめました。
この環境のなかで、私の勉強のスピードが上がることもなく、それが私にも先生にとってもストレスとなって、どんどん空気が悪くなっていくのが分かりました。
高校受験は推薦で通り、大学受験もランクを落としたために苦労することなく通り、小さいころから大抵のことは大きな努力亡くして人並みかそれ以上にこなすことができた私は、今まで「できない」という壁にぶつかったことがありませんでした。
友人と遊ぶ時間も寝る時間もを削って努力しているのに、こんなにもできていない。そんな「できない」自分に出会ったのは初めてのことでした。
初めてのことだからこそ、ショックが大きかったのだろうと思います。
「できない」と思いながら努力することは本当に苦しく、「できない」自分に向き合うということは辛く、「できない」自分を先生に見られるということは恥ずかしく、
さまざまな負の感情に取りつかれ、相当なストレスを抱えていました。
しかし、「こんな自分は恥ずかしくて誰にも見せられない」と思い、家族にも、親しい友人にも、彼氏にも、自分の抱える辛さや苦しさを吐き出すことができずにいました。「こんな自分を知ったらきっと嫌われてしまう」と、彼らの前では明るくふるまい、本当の気持ちを見せられませんでした。
私も先生も多くのストレスを抱えて行う授業は悲惨で、私はどんどん自分のことが嫌いになっていきました。先生も、私に授業をするのは嫌だったと思います。
負の感情はループしてしまうものです。
後期を通して何度も先生に怒られました。私の勉強不足が原因です。先生が私のためを思って怒ってくれているということはわかっていたのですが、ある時から、勉強に対する態度だけではなく、人格そのものを否定されていると感じるようになりました(本当にそのように言われた時もありました)。正直、もう先生に会いたくないし、授業も行きたくなかったです。
自分もどんどん自分を嫌いになっていっていたのに、他人からも自分について否定されることで、私はもはや自分という人間にまったく価値を見出せなくなってしまっていました。
それでも当時一人で戦い、なんとか立っていられたのは、家族や友人、彼氏に心配をかけたくないという気持ちと、こんなにダメなわたしを見せたくない、というプライドがあったからだと思います。普段から相当涙もろく、泣き虫な私ですが、当時は誰にも涙を見せませんでした(見せられませんでした)。
解放と異変
後期が終わり、ほとんど絶望の中で春休みを迎えました。先生と会わなくてもいい、解放の時です。
春休み前には、先生から4月からどうするのかをよく考えなさいと言われました。先生からは、ゼミを変えるという選択肢はないが、見てもらう先生を内密に変更することならできる、という話をされました。
この選択肢は、私にとっては、結局その先生の目からは離れることができないのであまり意味のないことでした。
どうするか考えろと言われたので、毎日それについて考えていました。
しかし、先生から言われたことや、4月からも先生の顔を見るのだと考えると毎回、涙が出てきてしまいました。
先生から言われた一言をふと思い出してお風呂場で泣いたり、
就活がえりの電車の中で涙目になってこらえたり、
友人と会ったときに本気でたのしめなかったり、
先生の言葉たちに心を支配されていたように思います。
先生が怒っているのは、私が勉強できないからで、先生が怒っているのは悪くない。怒られている私が悪いのだから、先生が言っていることが正しい。
と心の中で決めつけてしまっていました。
そして、その時にはもう、心だけではなく体にも異変が起きていました。
朝目が覚めても体を起こせず、何もない日には15時ころまで動けませんでした。ひどいときは夜まで布団から出られませんでした。
そんな自分を見て恥ずかしくなり、こんな自分であることに家族へ申し訳なく思い、涙が溢れました。
毎日、「できない」自分の将来への不安や、先生の言葉による苦しみが頭の中をループし、ただただ時間が過ぎて行くだけでした。
逃げる、乗り越える
2月が終わり、春休みが半分過ぎてしまったことで焦りを覚え、このままではおかしくなってしまう、もうおかしくなっているのだと気がついた私は勇気を振り絞り、プライドを捨てて一人の友人にこれまでのことを打ち明けました。
親身になって聞いてくれた上、これからのことについてアドバイスをくれました。
彼女がいてくれたことに感謝しかありません。涙が止まりませんでした。
それからは、もうひとつの美術・デザイン系の演習でお世話になった先生に相談し、その先生が学科長や学部長にまで話をしてくれました。
最終的にはその先生のゼミに変更することができ、ストレスの根源であった社会学の先生とは学校で顔を合わせることもなく、元々考えていたテーマとは全く違う卒業論文を書き上げ、無事に卒業することができました。
私は社会学のゼミを辞めて違うゼミに移るという行為は、逃げるという行為で、乗り越えることにはならないと思っていました。
でも、今は逃げるという行為も立派な乗り越える行為のひとつだと思えます。
私は病院には行かなかったので自分がうつ病だったのか否かはわかりませんが、心も体もぼろぼろだったということはわかります。
一番大切なのは自分で自分を大切にしてあげられることです。
どんなに他人に厳しくされようと、どんなにひどい言葉を言われようと、彼らは彼らの尺度であなたを測っているだけなのだから。すべてを無視する必要はないけれど、すべてを受け入れる必要もないのです。うむ。
なんだか教えみたいになってしまったけれど、私の壁のはなしでした。
すごく長くなってしまいました。。。
読んでくれて、ありがとうございます。
おやすみなあさい!