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書くことが好きなアナログ人間

昔から日記をつけたり手紙交換をしたりするのが好きな子どもだった。
あの頃はスマホなんて持っていなかったから、当たり前といえば当たり前だけど、それでもわたしは人よりも手書きが好きだったように思う。

わたしのなかで、
ことばは「きえてしまうもの」だった。
記憶はいつか忘れてしまう。
でも手紙はいつでも読み返すことができる。
「現実」が「現実」だとリンクしない、記憶違いだったのかと思えてしまうことがあるわたしにとって、「目に見えること」は何よりもの現実だった。

自己紹介にも書いたとおり、わたしはADHDとASDの特性を持っている。
大人になってから発達障害の診断をされる際に受けた知能検査で分かったのだが、わたしは平均値ではあるものの聞いて理解する力は弱く、見て推理する力が強かった。
それも理由にあって、特に手紙交換を好んだのかもしれない。

「そこにあること」
「それが現実であること」
「見て理解できること」
「修正できること」

アナログはわたしにとって、大きなプラスだった。

学生のころ、1番得意な教科は国語だった。
勉強はきらいで、そもそもする理由が分からなかった。
国語だけは覚えなくとも点数のとることができ、わたしに自信をくれる教科だった。

他教科の点数が低い理由は「そもそも勉強をしていないから」
家族もわたしも、そう思っていたんだと思う。
良かったのか悪かったのか分からないが、嫌われてばかりだったのに、人とずれてばかりだったのに、発達障害を思うこともなかった。

国語にはきちんと答えがあった。
「それ」がさす部分は、きちんと練られた「それ」の部分で、読めば理解することができた。
だからだろうか。
人との会話にでてくる「それ」が、いわゆる国語のように「それ」を指すわけじゃないことに、ことばの意味よりもことばの使い方の誤ちが気になってしまうことに、気づいたのは大人になってからだった。

人と会話をすると、わたしは理解できない人になってしまう。
長文の理解がついていけずに、たびたび意味をとらえ間違えてしまう。
でも文章の世界では、わたしは普通になれる。
なんなら、普通以上の普通になれる。
ずっとなりたかった普通に。

もちろんどちらが善し悪しではないことも分かっているし、普通を目指す必要がないことも分かってはいる。

ただ、やっぱりわたしにとっては
「わからないこと」よりも
「わかること」の方が
心地よいのだと思う。

嫌われてばかりいたから、人と関わりたいけれど、関わればまた嫌われてしまうという思いがある。
余計なことを言ってしまいがちで、それなら人と関わらない場所にいたいと思ってしまう。
わたしは傷つける。
わたしはおかしい。
わたしは不快にされる。
わたしは。
わたしは。
わたしは。
考えがわたしばかりに向いていることは分かっているし、人がそこまで自分に興味のないことも分かっている。

でも、やっぱり嫌われる不安は、恐怖は消えずにいる。

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