専門性から生まれる優しさ?
会社の理念や、サービスのポリシーなんかを見ていると、とても優しくて人徳の整った字面が並んでいます。
例えば、「○○を通じて環境問題を解決する」、「△△の仕組みで社会に貢献する」、「唯一無二の××な価値を世界に提供する」とかね。
本気でこのような思いを抱えて働く人々、企業はもちろんいるでしょうし、彼らのことを心から尊敬します。素敵だと思います。
でも、本当に多くの社会人が、そんな立派なことを考えて働くような優しい大人たちなんでしょうか。
私はこれまで生きてきて、「社会課題を解決したい」とか、「自分なりの価値を提供したい」と思ったことは全然ありません。
ましてや、大学で出会った多くの冷たい学生たち、雅やかな心の欠片も持ち合わせていなかった大人たちが、実はそんな美しい信念を内に秘めていたりするのでしょうか。
どうもこのあたりのギャップがわからず、結局のところ企業理念やサービスポリシーはキレイごとを言っているだけでは?だとしたら嫌になっちゃうわねーーもう何も信じられない!って感じになってしまっていました。
少し時間がたって、2025年初頭。
VBA(Excelのプログラミング的なやつ)にちょっっっとだけ手を出してみました。私は文系の学生で、ITに強いということもなく、ならばせめて来年度からの仕事に少しでも役に立つことをしてみようかと思いまして。
まだまだ序章なんですが、始めてみるとなんか楽しい。
「制御」とか「演算」とかの用語もちょっとかっこいいし、精神世界で想像したことを何らかの形で現世界に出力するのも、一人でコツコツ進める感じも、想作活動と似ている。
もしかして、わっしはこういう系に向いているのか?とまで思うのは傲慢ですが、少しずつ勉強を進めてみたいと思いました。
もし本当にこういう系のが楽しく続けられて、ほかのプログラミング言語も習得することができたなら、いつか技術系のお仕事もやってみたい。
そして、どうせ技術を生かして仕事できるなら、多少なりとも他人に役立つことがしたいな。
と、うっすら連想したのですが、ここで気が付きました。
そっか、現代社会で汎用性のある専門性が身についていると、何となくそれを有意義に生かしたくなるのか、と。
だから、なんだか立派なことを言っている人たちも、その人たちがどのような性格をしているかはあまり関係がない。
彼らが現代社会、資本主義社会において、有効かつ他より秀でた専門性を体得しているならば、そのまま社会で生かそうという気分になるのか。
確かに、そのほうが社会にとって健全で効率的なだけでなく、彼ら自身も得をする。だって、その技術には需要があって、ほかのことを頑張るよりも簡単にたくさんの報酬(感謝も金銭も)を得られるだろうから。
そして、ちょっと判断に気を付けなければならないけれど、これは光差す方面へのエネルギーの使われ方だとも思う。仮に彼らが冷酷無比な人間だったとしても。
個人の性格から温かい気持ちが生まれることもある一方で、個人の技量や能力から発生した、結果としての善性もあるんだな……。
薄っぺらくご立派なスローガンに対する偏見が、わずかに修正された一節でした。
私は世界を変えます。
本文中で「精神世界」という言葉を使っていますが、これはオカルト方面の用語として用いられる意味ではなく、単に「頭・心の中」とか、「自分の想像力の世界」とかの意味を指しています。
「想作活動」も、「創作活動」の「想像」部分を大事にしたいよねという気持ちから生まれた造語です。意味は「創作活動」と同じです。
他に、物を失したときは戒めとして「物を亡くす」という字を当ててますが、造語はこの3つぐらいです。
今回は2つも登場してしまい読みにくいかと思いますが、別にオリジナルの造語がたくさんある人間ではないので、ご容赦ください。