TikTokでプチバズした家族の話(後編)

バズった動画をぜひTikTokから見ていただきたい(音楽がより素敵な動画にしてくれている)。

でも、動画を見てみるか、と思ってもらうためにもどういう動画なのかを簡単に説明しておきます。

私のじーちゃんはいわゆる認知症で、いま施設に入っている。じーちゃんの面会にみんなで行った帰りにみんながバイバイのハイタッチをしているだけ、ただそれだけの動画。

楽しい姿を見てもらいたくて乗せたのは事実なのだけれど、私たち家族にとっての「当たり前」は今の日本にとって「特別」であったがために、この動画は再生回数を一気に伸ばし始めた。

認知症になった家族との付き合い方が素敵という褒めや、こういう風にしてあげればよかったという後悔、介護士さんからのこういう家族が増えてほしいという願望、現時点で200件近いコメントが寄せられた。

家族でこのコメントを共有したとき、ボケた私のじーちゃんがお父さんである、私の母が泣いた。

じーちゃんたちは500キロ離れたところに住んでいて、それでも母は月に一回、往復1000キロを通い続けている。でもふと帰りの車で「なにやってるんだろう」辛くなっていたと言う。でもそれがいま、頑張ってきてよかった、いますぐにでも行きたい気持ちにった、と。金銭的にも体力的にも辛かったことを自分の親のためにやるのは当たり前だと言い聞かせて耐えてたものが一気に緩んだのだと思う。

このTikTokのプチバズとコメントと、いいねの数は私たち家族の肯定だった。いままでやってきたことは家族の為であったけれども、報われる気持ちにさせてくれたのは紛れもなく顔も見たことのないSNSの住人たちによってだった。このコメントの嵐の日を私たち家族は「令和の変」と名付けた。

じいちゃんボケちゃったけど、意外とそれは大した問題ではなく。今日も笑顔の絶えない家族が築かれていく。

動画投稿の際につけたコメントだ。でも、実は大した問題だった。ボケていく過程に気持ちが追いつかず、じーちゃんも辛かったのだろう、怒鳴り散らしていた時期があった。少しずつできなくなっていくことが増えるじーちゃんも苛立ち、家族も苛立つ、悪循環の日々が私たちにも間違いなくあった。

しかし、家族が足並みをそろえてじーちゃんの認知症を受け入れたとき。今しかない時間を大切に過ごそうとしたとき。

多分、いや絶対、じーちゃんと一緒に過ごす時間を笑って過ごすことは、じーちゃんが死んだときに自分たちが後悔しない為だ。お葬式が思い出話で笑いであふれるようにしよう、そんな会話が出来る家族が好きだ。

じーちゃんにもばーちゃんにも長生きをしてほしい。でも間違いなくお別れをする日が来るわけで、その時に後悔しても遅いことはよく知れた話だ。「これ、遺影に使えるよ!」なんてシャッターを押す前に声をかけると、少なくとも私の家族は満面の笑みを見せる。(この写真は親戚だけど、同じ血を持つだけあって同じくウケる)

ボケたことがなんだ、と乗り越えられたのも、いま尚笑顔が絶えないことも、そしてこの家族の形が羨ましいだなんて思ってもらえるなんて、当たり前にいる家族のことがいま、また、最高だなと思わせてくれたTikTokありがとう。

そして、プチバズった今、認知症の家族との付き合い方として、明るさが絶えないこともあるんだと知ってもらえたらと、60万回再生動画の投稿者として(調子乗ってます)願わずにはいられない。

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