「歳をとった」って落ち込むの、そろそろこの時代に置いていきませんか?
「いやだ、この手。おばあさんみたい」母は言った。
老いをネガティブなものとしてしか捉えられない母をみていると
とても悲しい気持ちになる。
生きているのだから歳を取るのは当たり前で、
抗えないことなのに。
「●●がすごく老けた」と喜んでいたときに、
「久々に会ったんなら老けてない方がこわいんじゃないの?」
と答えれば面白くなさそうにする。
共感してほしい、ただそれだけなのはわかっているけれど、
その場しのぎの相づちがどうしてもできない。
自分の老いを実感するとものすごく落ち込むくせに。
その人が老いた分だけ自分も同じ年月を重ねたというのに。
どんなに素敵なCMや広告で、
シワの数は笑った回数、
荒れてしまった手は働いてきた手
勲章のように例えても、
本人が納得しなければそれらはすべてキレイごとで、
受け入れがたいことなのだと思う。
人生の先輩である彼女に歳を重ねることを語るのはおこがましいとは思うけれど、
変化を受け入れられない時間は間違いなく辛いんじゃないか、と察する。
ある日、好きな髪色に、好きな服を着ていた私に対して
「もう歳だからそれ似合ってないんじゃない」と口出しをしてきた時、
思わず声を荒げて
「お母さんのいうその歳だからってなんなの?」
普段声を荒げることのない私からの言葉に驚いたのだろう
「アドバイスじゃん!」と被せるように言った後からは
一旦は私に対して「歳だから」と言うことはなくなったのだけれど。
確かに、年相応というものはあって
自分の年齢をよく知り、より美しくみせるという意味では
似合っているものを着ていたいなと思う。
その歳だからこその良さというものを。
決して急いで歳をとりたいわけではないけれど、
いまの歳では格好つかないようなハイブランドを
さらりと身につけられる40,50代の女性になりたい。
おばあちゃんになったらエスニック柄のかわいい杖を片手に、
グレイヘアを輝かせたい。
けれど誰がなんと言おうと今日がいちばん若い。
この覆らない事実のもと、今日の私は
髪の毛をピンク色に染めて、
薄汚れたスニーカーを履くことを楽しんでいたい。
だって…似合うから。
自分×年齢=自分の輝く価値だと信じたい。というかそうだと思う。
自分はいつだって自分、でも生きている限り年齢は増えていく。
はじめは×1だったものが、27、48、78、90とかける値は死ぬまで増え続ける。
それくらい、人生の経験値は歳上の人たちにかなわなくて、超えられない。
でも、生きていればいつかたどり着く世界へ、
私は今だからできることを挑戦して、楽しんで、
自分をめいっぱい可愛がってあげながら向かっていきたいなと思う。
たとえ綺麗事でも、言い聞かせでもいいじゃない。
今日が1番若い、それを繰り返して
気がついたらかわいいおばあちゃんになっていたいなぁ。