【短編小説】公園の海に、ボートをうかべて 中編
公園の中は「海」だった。
恭介は今までの人生で、こんなに驚いたことは無かった。
人間はあまり驚いたときはそのままのポーズで固まるようで、恭介は階段の最後の一段に足を駆けたまま静止していた。
すぐ向こうに見える住宅や道路は、いつもと何の変わりも無かった。公園の中だけが箱庭のように、小さな海になっていた。
大きさは池のようでもあったが、しかし海だった。その証拠に潮の香りがしたし、打ち寄せる波は、海そのものだった。
木々や街灯、ブランコ、滑り台、ジャングルジムなどは沈んではいなく、島のように海の上に浮かんでいる。
囲むように作られた公園内の歩道はそのままで、そこにまるで砂浜のように波が打ち寄せていた。
住宅街から海は何十キロも離れているので、公園に海水が入ることは有り得ない。
恭介は波打ち際に恐る恐る近づき、しゃがんで足もとの水を触ってみた。冷たくて皮膚が痛かった。
そして指先を少し舐めてみる。やはり、しょっぱかった。
いつも地面がある高さと水面の高さはほとんど変わらない。それなのに中央のほうの波は浅瀬のものではなく、深い海のようにうねっていた。街灯が照らす部分を目を凝らして見てみても、底が抜けたように公園の地面は見えなかった。
あまりにもおかしな、有り得ない状況だった。
水道管が破裂したのか?
しかし、目の前にあるのは真水ではなく「海水」そのものだった。
この公園、大雨のときだけ水が溜まる遊水池になっていたっけ…?
いや違う。この頃雨なんて降っていないし、水を貯めるにしては平ら過ぎるはずだ。
海の水を引いてきてテーマパークでも作るのか?
でもこんな住宅街の小さな公園にそんなものを作るなんて、どう考えても有り得なかった。大体波は?大きな機械も無いのに作れる訳が無い。
恭介の常識では、この海はあまりにも非現実だった。
公園を出たところにはコンクリートの高い石垣があり、その上にはいつもと何も変わらない住宅が見えていた。
あの家の人たちは、窓からこの海が見えるのだろうか?潮の香りだってするはずだが…。
恭介はしばらく家々の窓を眺めていたが、特に騒いでいる人はいないようだった。
辺りを見まわしても、公園には恭介一人きりで、真ん中に唐突に海があること以外は、普段と何の変わりも無かった。
恭介はその場で少し行ったり来たりしていたが、落ち着くために、とりあえず波打ち際のベンチに座った。
さっきまで寒くて凍えていたのだが、今はどうしてかあまり寒さを感じなかった。
***
恭介は、夜の海辺をドライブしたときのことを思い出していた。
県道から見える海は漆黒で空と溶け合い、そこに海があるのか、それともただの深い闇なのか分からなかった。
ただ、波頭だけが白く闇に浮き出ていて、それだけでようやく海なのだということが分かった。
恭介は、飲み込まれてしまいそうな大きな闇に、何か得体の知れない恐怖を感じ、あまり海の方を見ずに運転した。
しかしこうして今、公園の小さな海だが波打ち際に座ってみると、静かに打ち寄せる波の音、風、空気、潮の香り、月のやわらかな光…。
思ったより恐怖を感じなかった。
それどころか心地良さすら感じる。
以前見た漆黒の大海原よりも非常識な、あまりにも小さな海なのに。
恭介はしばらくの間、その不思議な光景を眺めていた。夜の公園の遊具に寄せる波は軽い水音をたて、月明かりを受けてキラキラと美しく輝いていた。
恭介は波の音を全身で感じたくなり、カバンを枕にしてベンチに横になった。
「あ…」
空を見上げた恭介はため息ともつかない声を上げた。
よく晴れた夜空に無数の星が広がっていた。
星座が埋もれて分からないくらい出ていて、天の川も見えた。この辺りではこんなに見えるはずが無い。
怖いくらいに美しい星空だった。
結婚前、妻と岩手に旅行に行ったとき見上げた星空のようだった。
妻が、満天の星空って見たこと無いから見たい、と言ったので、山奥の少し開けたところに車で連れて行った。しかし着いた途端に、妻は車から降りるのを嫌がった。
「すごくきれい…うん、きれいなんだけどね、あんまりきれいで何だか怖いよ。私降りない。ねえ恭介、早く帰ろうよ」
あんなに星空が見たいって大騒ぎしてたのに、いざとなったらビビッてさぁ…と、帰ってきてからもよく言って、怖がりの妻をからかっていたことを、恭介は思い出した。
***
「今日はよく星がでてるな」
突然後ろから話し掛けられて、大輔は驚いて起き上がった。
そこには、いつの間に来たのだろう、小柄なおじいさんが立っていた。
古びたつばの広い茶色の帽子を被り、濃いベージュの、よれたコーデュロイのジャケットとそろいのズボンを履いていた。
ズボンの裾は膝まで捲くってあり、足は裸足だった。
着ている物と同じくらいよれて皺の刻まれた、よく日に焼けた小さな顔。帽子の下から小さな瞳が覗いていた。
おじいさんは右手に白地に黒いブチのある猫、左手にはスチール製でボコボコに凹んだバケツと、木の枝で出来た手作りの釣り竿を持っていた。
「さあ、ちょっと降りててくれ」
おじいさんは抱えていた猫を地面に降ろした。猫は大人しくそれに従った。
「釣り…ですか?」
もっと他に聞くことあるだろう。
なんでこの海に驚いていないんですか、とか。恭介は心の中で自分に呆れながらも、口から出てきたのはこんな言葉だった。
「ああ。晴れた日は毎晩来とるよ」
おじいさんは慣れた手つきで、釣り針に餌を付け始めた。
「お前さんもやるかい?」
「あ、いえ…」
恭介は断ったが、聞こえてか聞こえていないのか、おじいさんはそこら辺の枯れ枝を探し始めた。そして丁度良いものを見つけると、テグスと釣り針をくくり付け、恭介に渡した。
その時、さっきまで確かに無かった筈だが、一隻のボートが二人の目の前にすっと音も無く流れて来た。まるでボートは生きていて、おじいさんを迎えに来たかのようだった。
おじいさんはズボンの裾を折り曲げ、猫とバケツ、釣竿を抱えると、いきなりバシャバシャと公園の海の浅瀬に入っていった。
恭介はさすがに後に続くことが出来ず、波打ち際で立ち止まった。
「…冷たくないんですか?」
「そうでもないさ」
おじいさんはバシャバシャと水を跳ねさせながら歩いていき、バケツや猫を先にボートに乗せると、自分も乗り込んだ。
恭介は少し迷ったが、おじいさんが待っているので何となく断りづらく、裸足になった。
裸足で外を歩くことなんて滅多に無い。コンクリートに落ちている小さな石や小枝が足の裏にチクチク喰い込んだ。
恭介は黒い革靴の中に靴下を丸めて突っ込むと、スーツの裾をまくり、釣竿を持って恐る恐る浅瀬に足を踏み入れた。
くるぶしの辺りまでしか水深はなく、思ったより冷たく感じなかった。泥の中に足が少し埋まり、指の間にぬるっと泥が入ってきて、その感触が気持ち良かった。
恭介は、子供の頃、波打ち際に裸足で立ったときの感覚を思い出した。
波が引いていくとき足元だけを見ていると、踏んでいるところ以外の周りの泥が流れていき、波ではなくて自分がずるずると動いているような感じがする。その錯覚が面白くて、兄弟や従兄弟と飽きずにずっと立っていた。
恭介が狭いボートに小さくなって乗り込んだのを見ると、おじいさんはオールで漕ぎ出した。辺りに聞こえるのは規則的な波音と、ギイギイ軋むオールの音だけだった。
(後編につづく)