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「サマリアの女」を読もう!
はじめに
今日はこの場所に来てくれてありがとうございます。この場所では、キリスト教がどんなものであるか、キリスト教のエッセンスをほんの一部ですが、みんなで確認します。
そこで今日、みんなでお読みする聖書箇所は、ヨハネの福音書4:1-18です。「サマリアの女」というタイトルでクリスチャンの間では知られている有名な聖書箇所です。ここには、サマリア人である一人の女とイエス様のやりとりが記録されています。本当は、4章全体を読めればいいのですが、時間の都合上、今回は「サマリアの女」の一部を読むことにします。
聖書
はじめに、ヨハネの福音書4:1-18を読みましょう。
1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
1)あなたに近づく神様(4:1-6)
a.)ユダヤを去り、ガリラヤへ
1節に「パリサイ人たちは」とあります。パリサイ人とは、当時ユダヤ人社会で大きな影響力を持っていた指導者たちのことです。1節を読むと、そんなパリサイ人たちはイエスが多くの弟子を作っていることを伝え聞いたとあります。きっとイエス様に敵対するパリサイ人たちはイエスを妬んだことでしょう。
そこでイエスは、ユダヤ地方から、パリサイ人がいないガリラヤ地方に向かいました。ここで一旦、イエス様はガリラヤ地方に行き、パリサイ人たちと距離を取ろうされました。
そして、4節「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」実は、ユダヤとガリラヤの間にはサマリアという町がありました。当然ですが、ユダヤからガリラヤへ向かうならばサマリアを通るのが最短ルートです。しかし、当時のユダヤ人はこの最短ルートを通ることを避けました。
b.)サマリアを進まれたイエス様
というのは、歴史的にユダヤ人の間でサマリア人は、汚れた存在だと思われていたからです。正当なユダヤ人とは違い、異教の神々を信じる外国人と結婚し、「混血の民」となったのがサマリア人です。血筋を重んじるユダヤ人は、どんどんサマリア人とは距離を置き、サマリアには一切関わりを持たず、近づくことを避けるようになりました。
ところが、イエス様はそうした社会的常識を破り、サマリアに入り、サマリアにあった井戸の傍に座りました。当時、そのようにサマリアに関わることは、同胞からも忌み嫌われ、命も奪われるかもしれない危険が伴う行動でした。しかし、イエス様はあえてサマリアを進まれました。それは、なぜだと思いますか?
C.)あなたに近づく神様
それは、この後を読んでいけば分かる通り、イエス様は、一人の女性に出会うために、彼女を救うために、サマリアを通られたのです。偶然ではありません。イエスは固い意志を持って、サマリアの女に出会うために、文字通り命をかけてサマリアを進まれたのです。
イエス様は、少しでも早く彼女に会い、彼女と対話をし、救いの道を教えたかったことでしょう。
キリスト教とは、私たち人間が神を捜し求め、たくさんある選択肢の中から自分の神を選んでいくといった宗教ではありません。そうではなく、なんと神様の方が私たちを捜しに来てくれて、私たちを見つけ、私たちを救いへと招かれる、それがキリスト教です。神様は、今も、あなたのことを捜しています。
しかも、イエス様はたった一人の女性のために、命をかけてサマリアに入りました。私たちの信じる神が、私たち一人ひとりを心から愛していると、聖書は教えます。まとめて一括といった適当な愛ではなく、一対一の関係の中で、神様は私たち一人ひとりと向き合ってくださるのです。キリスト教の救いとは、あなたのための救いです。あなたのために、イエス様が差し出してくださっている真剣な救いなのです。
2)また渇く水(4:7-15)
a.)噛み合わない会話
6節を見ると、井戸の傍に座っていたイエス様のところに、一人の女性がやって来ます。これは偶然ではありません。イエス様は、もともと彼女に会いたくて、わざわざサマリアに入り、井戸の傍に座ったのです。
イエス様は、彼女に声をかけます。「わたしに水を飲ませてください」。すると、彼女は驚いて答えます。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」その理由は、先ほども確認した通り、「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。」しかし、イエス様は、そんな常識を破って、サマリアの女の魂に触れようとします。
10節「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
10節で、イエス様は「生ける水」があると言いました。当然、女性は、「この人は水を汲む物も持っていないのに、どうやってそんな生ける水というものを手に入れるのか」と不思議に思いました。
b.)魂を満たす生ける水
しかし、イエス様が言われた「生ける水」とは、井戸の水のことではなく、人の心の渇きを満たす水のことです。誰からも愛されないと感じる孤独を満たす水であり、何もかもが上手く行かずに落ち込むばかりの私たちを満たす水のことです。
イエス様は言われます。13節、「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。」
女性は勘違いをしていました。イエス様が言われた「生ける水」とは井戸から汲む水だと思っていたのですが、イエス様は「この水を飲む人はみな、また渇きます」と言われました。ここでイエス様は、この井戸の水から飲むと「また渇きます」と言いました。大事なのは「また」という表現です。
c.)「また渇く水」ではない生ける水
私たちは、喉が渇いたら水を飲みます。しかし少し経つと、また喉が渇いて水を飲みます。つまり、渇いては飲むを一生繰り返します。そのように「また渇く水」がみんなにとってもあるのではないでしょうか。
例えば、誰かの愛が恋しくて、何度も彼女、彼氏を作る人がいます。何度も付き合っては別れを繰り返す人。素敵な相手だったはずなのに、上手くいかなくなって別れる。そして、また誰かと付き合う。
結局のところ、愛が欲しいのに、愛が分からなくなり、「また渇く」ということが私たちにはあります。それは、私たちの心の中に大きな孤独があるからだと思いませんか。
それぞれに「また渇く水」があると思います。しかし、イエス様が与える水というのは、「また渇く水」ではありません。14節「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』」
彼女は言います。15節「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」これは、彼女の切なる願いです。
私たちも、決して渇かない水、私たちの人生を満たしてくれる水があるなら欲しいと思いませんか。
3)私たちを本当に満たす水は何か?(4:16-18)
a.)事情を抱えていた一人の女性
最初に、4章6-7節の場面を振り返ります。そのときイエス様は、井戸の傍に座っていました。6節を見ると「時はおよそ第六の時であった」とあります。それは、今の時間に直せばお昼頃です。そして、7節では、そのお昼頃にサマリアの女が一人でその井戸に水を汲みに来たとあります。
しかし、ここには大事な意味があります。というのは、この地域のお昼頃と言えば、太陽の光が強すぎて、日中、外仕事はできません。だから、外仕事は日が落ち始めた夕方になってから始めるのが普通です。ところが、暑くて誰も外にいない時間に、サマリアの女は一人、井戸汲みにやって来たのです。どうして、このとき彼女は、誰もいない時間に水汲みに来たのでしょうか。
それは、あえてこの女性は誰もいない時間帯を狙って水汲みにやって来たと考えられます。つまり、彼女は訳ありで、誰にも自分の姿を見られたくはなかったのです。
さて、どんな理由が彼女にあったのでしょうか。
b.)渇き続ける水
イエス様は、4章16-18節で、彼女の魂の問題を取り上げます。
「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』彼女は答えた。『私には夫がいません。』イエスが言われた。『自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。』」
なんと彼女には、今までに五人も同棲した男がいましたが、今一緒にいる男も夫ではありませんでした。つまり、今まで彼女には、一人も本当の夫がいなかったのです。周囲の人々からは五人もの男と結婚もせずに同棲して何をしているのかと厳しい目で見られたことでしょう。
しかし、どうして彼女は五人もの男性と関係を持ったのでしょうか。それは、渇き続ける水しか知らなかったからです。それが、彼女にとっては男性でした。自分の心をそのときは満たすけれど、男が去っていけばまた別の男。その男が去っていけばまた別の男。そうやって彼女は息継ぎをしながら生きていました。
c.)私たちを本当に満たす水は何か?
みんなは、ここまでの話を聞いてきて何を考えたでしょうか。意外にも聖書に記録された物語が、私たちの心の渇きを言い当てていると思いませんか。
例えば、私たちの生活にはスマホがあります。みんないつもスマホをいじり、写真を撮り、インスタにあげて「いいね!」をもらいます。自分で投稿はしなくても、友だちの投稿を見ることで、どこか仲間と繋がっている安心感を覚える人もいます。
ある研究によると、SNSで「いいね!」をもらう人ほど実際の幸福度は低いそうです。なぜなら、「いいね!」をもらえるような写真を撮り続ける生活を続けないといけないからです。それでは、疲れ切ってしまうのは当然です。それなのに、私たちはSNSを使います。しかし、「いいね!」をもらっても、私たちの心の渇き、孤独、空しさは拭えません。
本当に私たちの心を満たすのは、イエス様が与える水、決して渇かない生ける水を飲むことです。私たちは、イエス・キリストを信じ、イエス様とともに歩んでいく時、自分の心が満たされていくことを実感するのです。
4)人を本当に満たすもの
a.)罪とは?
私がクリスチャンとして生きる上で大事にしていることがあります。それは、自分の罪と向き合うということです。キリスト教は人の罪の問題をきっちりと取り扱います。
イエス様は、サマリアの女と向き合った時、最終的に彼女の罪の問題を扱いました。しっかりと彼女の罪の問題に切り込み、16節で「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。厳しいと感じるくらいに、イエス様は彼女の罪を明らかにしました。しかし、それが彼女にとっての、本当の解決へと繋がりました。
「罪」とは、何でしょうか? 罪とは、本来は神様と一緒に生きるはずの人間が、神様から離れて生きることです。罪と聞いてイメージするのは、何かの犯罪を犯すことでしょうか? 実は、それがすべてではありません。神様から離れて生きるのが罪ですから、ひとりぼっちで好き勝手に生きることが罪だと言えます。ある意味、空しさを感じ、孤独で苦しむことも罪の結果と言えます。
サマリアの女の問題はまさにここにありました。孤独を埋めるために男性を求めましたが、満たされず、何度も男性を変えました。罪の中に生きる悪循環です。しかし、イエス様はそんな女性の人生に本当の解決をもたらすため、罪を指摘したのです。
b.)人を本当に満たすもの
それは、彼女が決して渇かない「生ける水」を飲むためです。もしあなたが、イエス様が差し出してくださる「生ける水」があるのに、別の「また渇く水」を飲み続けるなら、「生ける水」はいつまでも飲むことはできません。
罪とは神様を悲しませ、その人自身の人生もボロボロにするものです。サマリアの女の場合、自分の孤独を男で満たそうとしたので、文字通り身も心もボロボロになっていました。しかし、イエス様は、そんな彼女を何とか救おうとされ、そのための最善の道として、イエスは彼女に自分の罪を認めさせたのです。
なぜでしょうか。それは、人間の中にある深い孤独は異性やお金、人からの評価や成し遂げた実績などでは満たされないものだからです。そうではなく、その孤独、ぽっかり空いた心の穴を埋めるのは、神様の愛です。
c.)おわりに
今、みんなの心の中は何で埋まっていますか? ぽっかりと空いた穴を他の何かで埋めようとすることをやめて、イエス様のくださる「生ける水」を求めてみませんか。
みんなは今、自分の人生に自信がないのではないでしょうか? この先、こんな感じで生きていって良いのかと、どこかで感じているのではないでしょうか。
高校生の頃の私の話をしましょう。当時、私はいつも渇いていたと思います。教会には行かず、好き勝手に生きて、友だちと誰かをいじめたり、バイトにのめり込んだりしました。なぜ、そう生きたかというと、自分の人生にあった欠点をごまかすためでした。
すなわち、全然満たされないという焦りがありました。こんなにもエンジョイして、いつも笑って過ごしているのに、楽しくないのです。だから、それをごまかすために、予定をびっしり入れて、充実した毎日を送っている風に、過ごしました。
最終的に私に必要だったのは、可愛い彼女でもなかったし、お金でも、悪い連中と連むことでもありませんでした。人からの評価でもなかった。結局それらのものは、私を満たしませんでした。私を最後に満たしたのは、神様と一緒に生きる人生を生きることでした。
今日みんなと確認した通り、神様のくださる「生ける水」によって満たされていく人生を、みんなも生きることができます。