第6章 感動に似た畏れ その1
「伝道者の書」6章。それは読んでいて辛くなる章です。
もし人が、どれだけ子どもを得ても、長生きをしても、死んだらみんなおしまいじゃないか、と伝道者は言います。結局のところ、人の求めるものとは富ではまかなえないもの。伝道者の書5章15節にもこのようにありました。
「伝道者の書」らしさが漂っています。確かに、よく考えても見れば、私たちが欲するものは、死んだら何一つ力を持ちません。生きているときはまだいい。けれども死んだのと同時に力がなくなる富は本当に富だと言えるのでしょうか。
伝道者はさらにこうも言いました。「私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。」(6章3節)──これこそ最大の悲劇です。人は生涯をかけて必死になって働きます。けれども伝道者はそういう人の富は空しく散っていくと語るのです。だったら、まだ日の目を見ず、太陽の光も知らないで死んでいく死産の子のほうが幸せだと言い切るのです。
ここまで来ると「しあわせ」とは一体なんなのかよくわからなくなります。このはかなさの中を私たちはどう生きていったらよいのでしょう。自分の空しさに気がつかない人は皆、そのまま悲劇的な人生を送り、死んでいく。そして同じような人々が生まれ、時代は続いていきます。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」(伝道者の書1章4節)とありました。しかしこの感覚こそ大切なものだと思います。私たちは伝道者が語るこのリアルな人生観を持っておくべきです。
神様が私たちを造られました。そして名と生を与え、この地で生きることをゆるされています。そんな人間が神に文句など言えるでしょうか。今、生きていることに不満を持つ人がいるのかもしれません。なんでこんな人生を、と。しかし、その思いは語れば語るだけ空しさが増すだけです。
私たちは「自分より力のある者」、つまり神様と到底言い争うことができる力もないし、身分でもないのです──。その言い争いにいったいなんの益がありますか。そう、伝道者は悲しげに書き記します。
私たちには、どうしても変えることのできないものがあります。「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」(伝道者の書1章15節)そう、伝道者は語っていました。
どんな人生にしろ、どんな境遇にあるにしろ、私たちは今生きていることを簡単にやめることもできないし、最初からやり直すこともできません。ならば、やはり「死産の子のほうがましだと」(6章3節)私たちは思うのでしょうか。(つづく)