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2023年8月(No.40)「ボクの平凡な人生は恵みだった」

僕には二個下の弟がいる。彼は四人兄弟の末っ子で、小さな頃は大人しい性格で控えめだった。だから、今みたいな人生を彼が生きていることは考えられないことだった。

弟は釣りを職としている。小学生の頃に覚えた釣りにのめり込み、気づけば世界に飛び出し、果ては南米のガイアナまで赴き、怪魚を釣り上げた。最近はタイ・ラオスの秘境に一人で行って、一週間、峡谷を歩き回り、カエルや蛇を食べるサバイバル生活をしながら、怪魚との出会いに胸をおどらせた。
そんな彼の様子を聞きつけた釣り業界の方々と交流を持ち、彼は現在、あるメーカーのテスターとして活躍している。その筋では、有名人らしい。
雑誌にも掲載されるほど、プロの釣り人となっている弟だが、彼は一人のクリスチャンである。そんな弟が受洗をしたのは、高校2年のイースター。そこで彼が語った証が今も忘れられない。

僕ら四人兄弟の中で一番最初に受洗をしたのは、姉2。次に、姉1が受洗し、三番目に僕が受洗へと導かれた。そして、ついに弟が牧師と受洗の学びを始めたと聞いた時は兄弟揃って驚いた。
当時、兄弟の中で、信仰について話す機会は少なかったように思う。そんな真面目な話をすることがどこか照れ臭く、なかなか踏み込んだ話はなかった。兄である僕と弟の会話の中に、信仰の話は滅多に出てこなかった。そして、僕の偏見だったから申し訳ないのだが、正直、弟が信仰について真面目に考えているなんて予想だにしなかった。
弟から大きな悩みの相談や、何か劇的な神様との出会いの経験をしたなんて話も聞いたことがなかった。だから、弟が受洗の学びを重ね、ついに洗礼式の日になって、僕は思ったのだ。「何を証しするんだろう?」──なんて失礼な兄だろう!

しかし、その日、マイクを手渡された弟は、教会の人々の面前でこんなことを語った。

「ボクの人生は、何か劇的な変化があったわけではないし、ボクの人生は今も平凡な人生です。けれど、このボクの平凡な人生は恵みだったことに気づいたのです。当たり前に生きていること、また、教会に通えて、神様を知っていること、この平凡な人生こそ、神様からの恵みだったのです。」

衝撃だった。当たり前の日々の歩みこそ、主の恵みであることを、弟は感じ取っていたのだ。劇的な神との出会いもあるかもしれない。しかし、幼い頃から教会に通い、主を知ることができていること自体に、弟は主の恵みを見いだした。

クリスチャン・ホームの悩みは劇的な出会いがないことだとよく言われる。しかし、神様との出会い方に劇的も何もないはずだ。出会ったら出会いなのだ。そして、本来、滅ぼされるべき人間が、今、生きていること自体に、神の憐れみ深さを感じ取れる。なぜなら、僕らが即座に滅ぼされないのは、忍耐をもって、僕らを待ってくださる主の慈しみ深さがあるからである。僕らの人生は、当たり前の日常ではない。驚くべき、神の賜物でしかない。

平凡な人生に思えるかもしれない。しかし、そんな平凡な人生を生きる中に、人は神を見いだせるはずだ。なぜなら、平凡こそ、恵みだから。

「実に、私たちは滅び失せなかった。
主のあわれみが尽きないからだ。」(哀歌3:22)

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