掌編「桃の香に君想う」
わたくしは、できることならあの子の傍へ居りたかった。
あの子がこの家へ生まれたのは、わたくしが迎え入れられて三年の後、まだ梅の蕾が固く結ばれた寒い日であった。続けておなごが誕生した事、家族は思い様々の様子であったが、わたくしは心から幸せと思うておった。姉妹もまたわたくしの事を大事に思うてくれた。代わる代わる私の前に可愛らしい膝揃えては、愛らしい口で歌など添えて、また時にはあられ菓子を分けてくれた、ほんに優しい御子等であった。時が経つにつれ、上の子の関心は余所へ向いて行くのがわたくしは少し寂しくもあったけれど、それは彼女の成長の印と受けとめておった。反対にあの子はいつまでもわたくしを慈しんでくれる子であった。毎年顔合わせると、待ち遠しく思うていてくれたと、わたくしにはひしひしと伝わって参ったものよ。
わたくしは幸せであった。顔や髪は勿論のこと、着物の裾まで丁寧に扱われるのが誠に心地好い時間であった。桃の香り愈々満ちた頃、毎年お別れする日がそこはかとなく悲しくはあれども、またの再会信じるが故に、目を閉じて眠ったものであった。いつ終わるとも知れぬささやかな生涯を、あの子へ添い遂げる事で、かように命が続くものとばかり思っておった。
あの子が嫁いだと知らされたのは、矢張り同じ季節であった。わたくしは桃の花弁眺めながら、永の別れに打ちひしがれた。あの子の晴れの日を穢す真似などしとうないと思いながら、置いて行かれた我が身が侘しく、雪洞の灯が落とされる夜毎、顔袖に隠した。正直に申せば、わたくしは置いて行かれとうはなかった。何処へだろうとも共に連れて行って欲しかった。我らがそう願うのは、叶わぬ夢なのであろうか。かつては先代も、連れて行っては貰えなかったと申されておった。その言葉を最後に、その後先代がどうなされたか、わたくしは存じ上げぬ。この家にはもう気配すら残されてはおらぬのだ。寂しくはあるが、それは未練なく使命を全うなされたが故、綺麗に上がられたのだと、わたくしは今では思うておる。
それから暫くわたくしは長き眠りについた。
「 前略 元気にお過ごしでしょうか。私は近頃家の整理をしています。先日押し入れから、随分久し振りに雛人形を出しました。箱を開けた途端、女雛と瞳が合ったような気がして、私はその拍子にあなたの顔を思い浮かべました。
私はどうやら、おそらくもうこのまま独身だろうと思うのです。そうなるとこの雛人形、毎年飾る世代が居なくなります。それであなたに相談です。お願いと云ってもいいでしょう。わが家の雛人形を、引き継いで貰えないでしょうか。子どもの居るあなたなら、毎年可愛らしく飾ってくれると思います。マンション暮らしでこれまで買わずにいたことは承知していますが、どうもこの雛人形が、あなたを恋しく思っている様な気がしてならないのです。おかしなことを言う姉とお思いかもしれませんが、本当にそう思えて仕方が無いのよ。だからあなたの家族と、一度相談してみて下さい。良い知らせを待っています 草々」
「 拝啓 私もずっとあのお雛様の事が気になっていました。確かにわが家は狭いですが(笑)、お雛様を買い求めなかったのは、心の何処かにあのお雛様の事があったからかも知れません。家族はみんな賛成してくれました。娘もとても喜んでいます。本当に、私が譲り受けてもいいの?お姉ちゃんが良いよと言ってくれるのなら、私は喜んで引き継ぎます! かしこ」
仄かな桃の香り漂い、わたくしは瞼をゆるり持ち上げた。夢か現か、久方振りに風を感じたと思うたらまた眠らされ、ところが今度は間もなく又日向に座らされておる。何やら顔の擽ったいと思えば、小筆が頬に当たっておる。稚い声まで耳に届き、わたくしは愈々血迷うたかと思う。けれども小筆の離れて目を開いて、驚いた。目の前に、あの子が居るではないか。つぶらな瞳を煌めかせたあの子が、わたくしの目の前に座して笑って居るではないか。わたくしは気がどうかしたのかしらと思うた。しかしながらそうでは無いと忽ち気が付いた。女の子の傍らには、可愛らしいおなごが一人、一緒にわたくしを見て笑うておったのだ。この瞳を、黒く凛々しい眉を、わたくしは大変よく知っておる。もう二十年以上も昔から、ずっと知っておるよ。
恥ずかしながら、わたくしは白粉の下でそっと頬を赤らめておった。けれども向かいで膝揃えて座ったあの子も、否、もう立派なお姿になられて、奥方とお呼びしようか、奥方もまた、頬を染めておられた。おあいこにて。
わたくしはこの時になって、幸福と云う物を真実学んだように思う。これほどまでに甘美な代物とは、世に命を頂いてほんに有難いことであった。今度こそ、いつまでも傍に居りたいと思う。
おやおや、隣で御内裏様が御嫉妬遊ばされた故、わたくしの物語りは、これまでとさせて頂こう。
それでは御一同、よい夢を―
おしまい
お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。