文章の海へ
台風が来て、去っていきました。外に出れば風が危ないと思い、ステイホーム。部屋が少し片付き、少しだけ居心地良さが増しました。さらに片付けられると、もっと居心地良くなるのだろうな。
片付けとか掃除とかの作業がはかどる時って、頭の中の言葉が少ない気がします。頭のおしゃべりを減らすために、ラジオやポッドキャスト等を流すことがある。作業に夢中になれば、そういう外の音も要らなくなる。無心という静けさの気持ち良さよ。
こうして文章を書いているときも、無心に似た静けさを得られる。頭の中のおしゃべりが減る。言葉を外に取り出して眺めながら、これってどんな感じ?合っている?と、自分に問いかけて耳をすます作業みたい。問いかけに対する回答を聴くために、静けさが必要。思考の余白が必要。
数年前に転職したとき、新しい生活に慣れるために、わざと今までの自分の習慣の逆をやってみました。そのひとつが思ったことを書く習慣だったように思います。今思えば、そんな極端なことをしなくてもと言えますが、新しい生活に順応しようと懸命だったのですね。文章を書くと、慣れた過去の生活様式にとらわれた言葉になり、新しい生活に馴染むことが遅れるのではと考えた。
文章は思考の枠を作ってくれて、それが生活をスムーズに送る行動パターンを支えてくれているところがある。スローガンのように思考に大枠を与えてくれて、行動し続ける力になる。そうでなければ、いちいち迷って足を止めて考え込んだり、考えることを放棄して優柔不断の波に溺れそうになったりする。
新しい生活に慣れようとしたときは、ざっくりしたスローガンだけを胸に、どんどんやってみる日々でした。めくるめく予想外の展開に目を丸くしながら、否定も肯定もし過ぎないように、情報の蓄積に努めていました。自分ならばどうしたいか、答えを急ぎたくなかった。今までと異なる現場では、私が知らない様々な事情があるだろう。今決めつけて、背後の仕組みに気付けなくなることがイヤだった。
新人の日々は大変だけれど、新鮮で楽しい日々でした。今までの仕事とは違う世界に飛び込むことを決めたのは、自分自身。慣れない仕事場では、要領よくカッコ良く振る舞うなんて無理。最低限、何だけを大切にするのか低いハードルを設定。ベストは尽くすが、知らないことやできないことを素直に認める。失敗を認める。恥を真正面から受けきる。そんなスタートです。仕事が違えば、職場で扱われる言葉や思考が異なる。だから、言葉で表現することに慎重になりました。どんな言い回しがふさわしいのか、判断ができないのです。
そんなこんなで数年経ちました。もともと言葉で表現しながら思考したりコミュニケーションをしたりすることが好きな私。職場では、だいぶ臆さず考えを言葉にするようになりました。それはそれとして、今。「仕事」とは別枠で、感じたことや考えたことを言葉にしたくなっています。
言葉を操って現実を変えられるとは思わない。けれども言葉にすることによって、現実をクリアにすることが幾分かできると思う。日々の生活の中でなんとなく感じたことや考えたことを、言葉の助けによって認識しなおす。モヤモヤがスッキリする。生活が実感を得て、かけがえのない大切なものに感じられるようになる。
もっと単純にいえば、スッキリさっぱり。こころポカポカ。ワクワク。しっくり、じんわり、ほっこり。
こんな感じでしょうか。
これは、他の人の文章を読んでも得られる体験です。しかし自分で文章を作ることでしか届かない、かゆい背中のようなものが誰にもあるものです。
自分で文章を書きながら、なるほどそうだったのねと膝を打つ。こういう体験に気付くと、もうやめられない。文章を書く生活は、やめられない。
久しぶりにこんな心境になりました。きっと今、私にとってそういう時期だったのでしょう。言葉にしていないたくさんの出来事が、内々にたまってきたのか。今こそ文章の海にザブンと飛び込んで、泳ぎたい。
そんな今の私に、ちょうどよさげなnoteさん。どうぞ、よろしくお願いします。