整える、ということ・・・「一旦諸々中断」編9
Macの調整と片付けを始めて数日。
部屋が急に赤く染まったので外を見ると、なんと見入ってしまうような綺麗なピンクの夕焼け。
どうにも片付くイメージが見えない部屋の中で、何をこんなに抱え込んでいるのか自問自答。
■仕事の資料関係
実際の資料の他に、集めた情報や関係資料、冊子など紙媒体の多いこと多いこと。
・・・もう少し先で役に立つから、もっと情報整理したいから、、、いつもそうして、「過剰」になりがちなのが私の悪い癖。
「過剰」になってしまうのはなぜか。ここに問題がありそう。
■ボランティアや趣味の活動関係
高さ1メートルほどもあり、20段弱あるレターケースには、これまでやってきた森の活動やまちづくりのパンフや資料、デザインソースになりそうなチラシやカタログが、びっしり入れてある。でも考えたら、3年前の引越し以来、実は中身が増えることはあっても、改めて見たり、使用したことは実は、ほとんど、ない。
・・・何のために持っているのか。
「やってきたこと」「やっていること」で、自分の中の空な部分を安心させているのかも?
■本・・・本は私にとっての生きる糧になってきた。
それこそ、物欲のない私だけれど、本だけは違う。手放しても手放してもどんどん増えていく。しかも興味の幅が広すぎて、どんどん読むけど、知識としてはどんどん忘れ、概念だけがのこるという読み方だけど。。
・・・これは難しい。
■他にもベッドの下や家具の隙間を使って一見上手く隠して収納してあるものを改めてみると、捨てられない昔の本、子供が小さかったときの絵本や思い入れのある木のおもちゃが占めているが、実際この3年どころか、この10年以上、使わないし、見てもいない。
断捨離してきたつもりの私でも、こんなに捨てられないモノを抱えていたのかと、ある意味愕然としてしまった。しかも、持っているものが、今の、これからの私に必要なのかと問われると、
置いてあること、持っていることで、
「何かあったときに役に立ちそうだ」という安心感 と
これだけのことをやっている、あるいは、やってきた、という
「これは自分を、自分で認めるために必要だったもの?」
でも実生活と仕事において、自分でこれで食べている、社会に役に立ってきたと言えるもの、自分の中で自信を持って言えるものが何も実はないことの裏返しだということには、何年も前から気がついていた。
そう、気がついていたけれど気がつかないふりをして、結局はその場その場の流れのままに来てしまったのです。
そのことを受け入れることができるまで目の前の、ものは手放せないのです。
続く