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夏の墓参り


「オジサン、ヒトゴロシってほんと?」

 耳の穴が貫通する程に、蝉の声がうるさかったある夏の日。近所の子どもであろう、淡い青色の薄いTシャツを着た小学校中学年くらいの少年が俺に話しかけてきた。


 俺の住処であるボロいアパートの部屋では、壊れたエアコンがガタガタと如何にも調子の悪そうな音を立てていた。スマホを見ると外の気温は三十度を超え、汗をかいて舌を出した簡単な人間のイラストが猛暑日を示している。家にいても外にいても暑さが変わらないのなら、このうるさいエアコンの音から一刻も早く逃げたかった。グレーのダサいスウェットの上だけを脱ぎ、代わりに薄っぺらいTシャツを着る。スマホと財布と家の鍵だけ持つと、俺は近くの公園に向かった。
 途中、コンビニに寄ってビールを買う。大学生くらいの男だか女だかわからない髪の長い店員は、一瞬俺を見てギョッとした。ろくに働きもしないニートの酒浸りには仕方のない視線だ。特に気にすることもなく手早く買い物を済ませた。
 コンビニの自動ドアが開くと、殴られるような蒸し暑さが放たれる。この暑さでは冷やしたビールも公園のベンチに座る頃には、手の体温と外気温のせいで生ぬるくなってしまうだろう。そう思いながら歩き始めた。
 だが、もちろん公園に行ったとてすることはない。アスファルトの陽炎をぼんやりと見つめて、永遠に鳩に餌やりをするじいさんを眺める他なかった。
 そんな時だ、少年に話しかけられたのは。

「ねえ、オジサン」
「あ?」
 暑さに心身共に殺られた俺は面倒くさげに返事をする。
「オジサンじゃねぇよ、まだ二十六だ」という文句すら喉を通らない。
 少年は好奇心だけで出来ているみたいに、昼間から公園で酒を飲むガラの悪い俺に億さず、若干身を乗り出して話を続けた。
「オジサン、ヒトゴロシってほんと?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
「でも、周りの大人たち皆オジサンの事ヒトゴロシだって言ってたよ?」
「なんでだよ。それにそりゃあ俺じゃねぇ。友だちだよ、人殺しは」
 嫌な事を思い出した。
 思わず仏頂面だった顔を更に渋くする。
 少年は物騒な話をしているのにもかかわらず、「へー」と言って興味津々に俺の顔を覗き込む。
「なんだ? 興味あんのか? 悪ぃな、俺は夏に殺されてる途中なんだ。人殺しの話はここで終わりだ。さっさと帰んな」
「えーやだよ、僕すごく暇なんだ」
 ただの暇つぶしかよと思いながらも、動こうともしない少年を前に気づけば
「あー、じゃあそいつの墓参りでも行くか? 今日命日なんだよ」と言っていた。
 なんでだよ。
 それを聞いた少年はみるみる笑顔になった。
「行く!」
 めんどくさい事になってしまった、と思いながらも俺はベンチから腰を上げた。
「あと、ついてくんのはいいけどよ。オジサンって呼ぶな。まだそんな歳じゃねぇよ」
「じゃあ何サン?」
「……橋下サン」
 ここまで来られるとオジサン呼ばわりは鼻につく。
 渋々苗字を教えると少年は
「わかった! 橋下サンね、俺はねー」と自己紹介を始めようとしたから、俺は咄嗟に
「言わなくていい」
 と言葉を遮った。不思議そうな顔をする少年に舌打ちをして歩き出す。少年もそれ以上は何も言わずに駆け足で後についてきた。
「ねぇ橋下さん、その友だちってなんでヒトゴロシになっちゃったの?」
 改めて疑問に思ったのか、歩いてすぐに口を開いた。純粋なのか、もう濁ってしまっているのか分からない瞳が嫌に目に付く。
「あ? もう忘れたよ。あいつが殺したのはもう十年くらい前の事だ」
「えー嘘じゃん。はぐらかすなよ」
 つまらなそうにする少年だったが、それは本当だった。確か同じクラスの奴だった気がするが、はっきり言ってしまうとその後の事件というか出来事のせいで、俺はその前後の記憶が曖昧だ。
「嘘じゃねぇよ。あー、じゃあその後の面白い逃避行を教えてやるよ」
「とうひこう?」
 仏頂面で話し始める男とそれを興味津々で聞く少年。周りからどう見えてるのかは知らないが、これから話す事はあまり教育には良くない話だ。
「そー。あいつが人を殺して、その後俺と一緒に逃げたんだ。クソ暑い夏とクソうるさい世間からな」


 そう、あの日も今日みたいにクソ暑い夏の日だった。蝉の声がうるさいから俺は仕方なく誰もいない教室の窓を閉めきって、あいつが来るのを待ってた。多分一緒に帰る約束をしてたんだろうな。今よりもだいぶ素直な性格をしてたからか、それとも待ち人があいつだったからか、俺は先に帰らずにぼぅーっと机の上にでも乗って待ってたと思う。
 ドタドタと相変わらずうるさい足音で教室にやって来たあいつは、顔色も変えずに
「ごめん。俺、殺しちゃったから一緒に帰れないわ」って言って、ただでさえ薄い顔を虚無にしていた。
「は?」
 急にそんな断りを入れたあいつが理解できなくて、俺の語彙力は急降下した。
「だから、×××殺しちゃったから俺逃げるわ。お前待たせんのも悪いから言いに来ただけ。じゃあな」
 用事思い出したから帰るわ みたいに、また明日会えるようなさよならを言われて困った。意味不明な所で律儀なのが癪に障る。俺なんか気にせずに早く逃げればいいのに。
 釈然としない自白が気に入らなかったから、逃げていくあいつの腕を掴んで「俺も行く」といつもの遊び約束みたいにニヤリと笑った。あいつは思った通りに呆然として、それから笑った。運動部の掛け声と吹奏楽部の楽器の音をバックにして、声が響き渡る廊下で俺らは笑った。
 今はもう誰を殺してたかなんて覚えてないけど、その時の会話は忘れなかった。
 その時の温度は忘れなかった。



「橋下サンってただのやばい人じゃん」
 黙って聞いていた少年が突然口を挟んだ。
「なんだ、知らなかったのか。危ないから逃げ帰っていいんだぞー」
 俺は棒読みで告げる。
「やだよ、トウヒコウ教えてくれるんじゃないの?」
 そう言って少年は口を尖らせた。俺は少し考えたが、どうにも答えにくいので言葉を詰まらせながらこう言った。
「あーそれがな、ここから先ははっきり言ってよく覚えてない」
 矛盾した俺の言葉に、「は?」とでも言いたげな顔で少年は俺を見上げた。ここまでの会話で緊張が解けてるようだ。
「学校から帰って最低限の荷物まとめて、そのまま適当に来た電車に乗ってどこまでも逃げていったよ。俺らは」
「橋下サンのお父さんお母さんは?」
「施設の出だから知らねぇし、施設は嫌いだったからなんの未練もなかったよ。あいつはどうか知らねぇけどな。でも確か両親はいたはずだ」
 少年はただ、ふぅんと言っただけだった。そんな憐れみや同情の欠片も見えない態度がいたく気に入った。
 俺はたぶん、あいつが人を殺さなくても、殺しても俺に報告せずに逃げても、いつか逃げ出していた。逃げる理由なんて何でも良かったんだ。
 ただ、俺はこの逃避行を利用しただけだった。
「問題は逃げた後だよ。しばらく経って、あいつは死ぬと言い出したんだ。まあ金もろくにねぇ少年二人がそう何日何ヶ月も生き延びられるわけがなかったんだ。」


「あのさ、巻き込んでなんだけどお前も一緒に死んで欲しい」
 疲れが滲んだ薄い顔でそう言ったあいつは、とうに限界を迎えていたんだろう。だけどそう言う俺も限界だったし、そもそも捨て子の俺が世界に必要のない奴だというのは、物心ついて状況を理解した時から分かっていた。
 だから、当時から死への恐怖はあまり無かった。
「いいよ」
 たったひと言そう言ったら、あいつは安堵したように頬を緩めた。
「俺がやった事なのにもし、お前が生きて捕まったらそれこそ申し訳ねぇんだ」と言う。
 やっぱり変な所で律儀だ。
 ……いや、律儀と言うのか?

 それからあいつは自白を含めた遺書を書いて交番に届けた。俺も追記みたいな形で
「なんとなくついて行きました。最低な逃避行でした。橋下」
 と下の方に書いた。
 そして俺らはなかよしこよしみたいに手を繋いで、夜の騒がしくて車通りの激しい道路に身を預けた。



「で、橋下サンだけ生き残ったってこと?」
 事の顛末を話すと少年は冷静に結末を言った。まるで物語でも見ているみたいに。
「そー。その時俺もすごい頭打って、当時の記憶が曖昧ってワケ」
「その時にその腕も持ってかれたの?」
 少年の言葉にビクリと反応する。思わず関節までしかない右腕をさすった。
「そうねぇ」
 当時を思い出すように俺は唸る。
 これは、あいつのびびった証拠だ。でけぇトラックを前にして、死ぬ寸前にあいつは「生きたい」と願った。だがその願いは後を付いて行った「死にたい」と思う俺を生かした。

 今でも夢に出る。
 道路に踏み出す足、あいつと握った手の感触、急に立ち止まってこっちを見た怯えた顔のあいつ。次の瞬間、俺たちは明るいトラックの光に包まれて視界が揺れる。
 ……そこで大体目が覚める。俺は関節までしかない右腕を天井に差し出して、無い指を力強く握っていた。
 今でもあの日にこれほど囚われてしまうのは、他人からは滑稽に見えるのだろうか。だが、他人となるべく関わらない人生を送る俺にはわかるはずのない疑問だった。
「ほらここだよ。あいつの墓」

【…
 谷口 遥輝
 谷口 郁恵】

 久々に来た墓石には、新たにあいつの母親らしき女性の名前が彫られていた。あの事件から、あいつの家族とは会っていなかったから知らなかった。
「橋下さん。俺ね、谷口遥斗って言うんだ」
 無表情に俺を見上げる少年__もとい遥斗は言った。
 驚かず黙ったままの俺に遥斗は続ける。
「知ってたの?」
「いや。でも、そのうっすい顔が似てるから分かったよ。あいつ、弟いたんだな」
 初めから見覚えのある顔だとは思ってたが。
「お兄ちゃんがいなくなってから生まれたから、生きてる時の事は知らないけどね。それに、お兄ちゃんの事知ったのはお母さんが死ぬ間際だったんだ……」
 遥斗は今にも泣きそうに顔を歪めた。俺は何も言えずにただ、墓の前で手を合わせた。
「俺ね、なんにも知らなかった。なんにも教えてもらえなかったの。だから、橋下さんに教えてもらおうと思って話しかけた」
「気は済んだか?」
 元気の無い花を見ながら俺はそう言った。この暑さじゃ水はすぐにぬるくなる。花を買ってくればよかったと思った。
「うん。たぶん」
「そうか。じゃあ俺は帰るぞ、クソ暑くて堪らん」
 そう言いながら額の汗を拭って、俺は来た道をひとり戻っていった。遥斗はすっきりとした顔で墓石を眺めて、俺の背中に向けて叫んだ。
「橋下さん! またお兄ちゃんの話聞かせてね!」
「だからもうなーんも覚えてねぇよ」と言いながら、俺は左手をひらひらと面倒くさげに上げた。
 俺を囲むように鳴く蝉の声は、夏の終わりを感じさせるにはまだ程遠いようにうるさかった。