目を打撲したかも。痛い。
もう2ヶ月も書いてなかったらしいです。連載詩。noteが言うには。
詩はちょこちょこ書いてましたが、なにぶんTwitterにも載せていないので(というかTwitterすら低浮上が続いている)もう全員、空寝なんて忘れてしまったんじゃないかとすら思えます。
でも、書いてました。
そして僕の詩を読む人読む人、最果タヒに影響されてるね^ ^ 最果タヒっぽいね^ ^ みたいに言ってきます。そうだと思います。
でも僕の詩にゃ、一貫性がなくてぶつ切りのサーモンみたいだって、それは嘘だけど、自己に対する“あなた”がいないんだって。詩に一貫性がある方がいいみたい。最果さんの詩も、一貫性がないようでめちゃくちゃあるらしい。“あなた”もいるらしい。
僕が最果さんぽくなっちゃうのはわかっている。だって彼女の詩を読んで詩を書き始めたし、彼女以外の詩をあまり読まないし、そもそもネットに蔓延る自称ポエムは好きじゃないし、よく考えたら言葉なんてきらいだし、言葉を使う人間なんてもっと嫌いだった。しんどい。
世の中しんどーいことばかりだった。生まれてオギャって無傷なんてことはない。
なのに人々、「大丈夫」とか簡単に言うのね。大丈夫なんてことは本当にないのです。そう言えるのは喉元過ぎれば熱さを忘れるって話で、当時あんなにしんどいって思ってたのに、他にもしんどいこと出てきちゃったり、幸せになっちゃったりして、「なんか大丈夫だったわ〜」って、過去を美化する傾向あるよね。喉元にいる時に「大丈夫!」って言われたって、全然そんなことない。だってお前は大丈夫だったかもしれないけど、俺はお前じゃないし、お前も俺じゃないし、俺はダメかもしれない。
というかそれより目が痛い。
目ん玉打撲したかも。
ダメかもな可能性を限りなく低くすることしかできない。哀れ。目も痛いし。
でも「大丈夫」って言いたくなるよね、俺は大丈夫だったから。きっと大丈夫だよって願掛け。それを素直に応援って思えない時はココロに余裕がないんだなーと思ってる。そして人間、大抵ココロに余裕なんてない。
note、こんなんじゃなかった気がする。
詩以外のこと、どんなテンションでどんなこと書いていたかすっかり忘れてしまった。人間は常に移り変わり変化していくものなので、ってことにします?
次こそ詩の記事でお会いしたいですね。
では。