日記:「分かり続ける」ことが大切なのかも:第五話「終末と希望」アウグスティヌス講話(山田晶)_7
終末を間近にした人の態度には、どういったものがあるでしょうか?
世直しに熱狂したり、あるいは逆に個人的隠遁をしたり、山田さんはそういった態度を指摘した上で、それはキリスト教徒として正しい態度ではないのでないか、と語っています。
この第五話では、いつ来るか分からない「終末」を、「与えられた仕事を静かに忠実に果たし(P211)」つつ「待つ」ことについて語られています。
以下、印象的なところを抜き書き。
「神の意志に属することを自分に無理に引き寄せず、待つ」。そのことによって「信仰が浄化されてゆくのでは」と、山田さんは語ります。
私には、この「待つ」意味はよくわかりません。
ただ、いつか(とても恐ろしいことだけれども)死ぬのならば、それまでを「待つ」間には「自分ができることをしよう。今しているのは、そういうことだ」と思うことは、悪くない気分でした。
またこの話全体を通しては「信仰する」とはどういうことなのか、初めて意識しました。山田さんのいう「信仰が浄化される」ってどういうことだろう。
そういえばこれまで「信仰するという行為」について深く考えたことはありませんでした。いつかくる終末を意識すれば、自然と向き合う行為なのかもしれないなあ。
などなど。とても大切なことを語っている章です。私にはうまく消化できていないのですが、この消化できないゴロゴロした感じが大切なジャンルの話だとも思います。
「分かる」と片付けてはいけない。そもそも「分かる」ことではないのではないか、「分かり続ける」必要がある話なのでは、と思います。…うまく言えないのですが。
これで「アウグスティヌス講話」の読書は一旦終了。次の本も読みたかった本で楽しみです!おやすみなさい。
(雑記)
いよいよ暑さが全開です。夏の真っ只中を歩いている感じですね。
(日記:2022年8月8日)
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