日記:個人的な体験と感想_2022参議院選02:通りすがりのあなたにこそ
表題の件、ちょっと記録していこうかと思います。詳しくはこちらをどうぞ↓
…つづき。
「何やってんだ」
と言うことで「左派リベラル」に共感する私ではありますが、そもそもリベラル系の番組にはこれまでも違和感を感じていました。
中でも特にフェミニズム関係やおそらく50代以上の方のコメントや解説に対し、例えば「れいわ新選組」に対する評価に端的に現れる私の認識との、ズレやモヤモヤを感じることが多かったです。ちなみにれいわ新選組を評価する「識者」にはロスジェネ世代が多いように思っています。
(フェミニズムのことはまたどこかで書きますね、フェミニズム自体が問題だとは「まったく思っていません」(←ここ念のため!)。おそらく多くの人が自分の中にマジョリティとマイノリティを持っていて、自分の中のマジョリティには気付きにくいことから生まれるズレだと思います)
色々な場面で違和感を感じたのですが、それらをザクッとまとめるなら、以下のような感じだと思っています。
「自由に発想してください!君たちの既成概念の囚われない新しい力が必要です!」と言われたので自分が思うようにやってみたら「それは違うんだよねえ(困)」「…ふざけているの?」「目立ちたいだけに思える」とか言われる、そんな感じ。
私が違和感を覚える「左派リベラル系」の方々は、既存フレームの枠内で認識・論評を披露し合うのみで、そのフレーム自体が認識できるモノの限界について無自覚なのでは…?そう感じます。そしてすみません、もう少し攻撃めいたことを言えば、「右派」「ナショナリズム」の「新しい勢力」に関しては焼け栗を投げ込まれたように反応するけれども、「左派」「リベラル」の「新しい勢力」に対しては冷笑すると言うのは、自分たちのナワバリに「まったく異なるアプローチ」が入ってくることへの不快感でもあるように感じます。
確かに、中には、結果としてふざけているだけで終わるものもあるかもしれない。けれども、その当事者たちがどこまで本気でやっているのか。そこにはリアルに今を変えようとしている人が存在しているのに、それをスルーするテは、ないのではないでしょうか? 既存システムが機能不全を起こしている今の日本で、「型破り」を「あれはないわ笑」と片付けて、次世代の芽が育つとは思えません。
れいわ新選組の山本太郎さんが街宣で「メロリンキュー」を一部解禁したことが少し話題になりましたが、その中で一番共感したのが、「17歳の山本太郎から見て47歳の山本太郎への言葉」です。「ひどく子どもじみている」「何やってんだ」そういった言葉が並びました。これ、とても大切な言葉だと思っています。空気を読む人たちから「何やってんだ!?」と言われてしまう、そういう力こそが、今必要なのではないのかしら…?
「プアリベラル」と「リベラル貴族さん」
もちろん人が把握できる範囲には限界があります。そして、それを把握しないでも平気でいられる理由は何かと言ったら、01でも述べたように、「左派リベラル系界隈」が実は切羽詰まっていないからでは?と考えるのです。
私はおそらく「高学歴貧困予備軍」です。「いい大学」に行きましたが、就職氷河期だったため就活は苦労しました。なかなか面白い会社に入りましたが、収入ランクでみれば「大企業ルート」の方とココで明確に分かれました。結婚した夫も「いい大学」を卒業し「大企業」に勤めていましたが中小企業に転職。今は二馬力で、なんとか「大企業」の一般社員くらいの経済規模だと思います。子ども1人を大学に入れるのがギリギリで、自分の老後資金は心もとない状況です。
そのため、01にも書いたように、そんな時に「どの政党もダメだね…」で終わるわけではいかないのです。どこもダメならどうするか、本当に希望はないのか?そこまで踏み込まずにため息で終わられては困るのです。
こういう私をカテゴライズすれば、「プアリベラル」ではないかと思っています。そしてこの「プラリベラル」に対し、切羽詰まっていない論客さん、パーソナリティさんは「リベラル貴族さん」なのかな?という印象です。
「プアリベラル」から見ると、「リベラル貴族さん」はリベラルVS保守の議場で眉をひそめながら予定調和の意見交換会を行なっているように思えます。また、その言葉の先にどういった聞き手を考えているのだろうと疑問に思います。まさか日本に暮らす人全員が、「意識が高く、ちょっとした余暇に本を読んでみたり、穏やかかつ積極的に政治に関心を持つ市民」になると思っているわけではないと思いますが(そんなの異様だし)、彼らの言動振る舞いを見ていると、その先にはそういった「理想像」しか描けないように思えるのです。
「通りすがりのあなたにこそ」
れいわ新選組の山本太郎さんは、街頭演説会で人々にマイクを渡してその声を拾っていました。その時に言っていたことは、「通りすがりのあなたにこそ、マイクを握ってほしい」という言葉です。「何でもいい、あなたの思いをぶつけてほしい」。そしてそのマイクの声に、れいわ新選組がすぐに答えられない場合も、これからの政策の糧となると語っています。人の声を聞き、それを受けて積極的に変わっていこうとする姿勢を、街頭に立って身をもって示していました。私は今この時代には、論理と数字を並べた公約・政策を機械的に判断するよりも、このスタンスひとつをもってれいわ新選組を支持したとしてもおかしくないと考えているのですが、それはともかくこのスタンスに比べて「リベラル貴族さん」はあまりにも自分達のホーム(アウェイに対するホームですね)に留まっていないか?と思うのです。(もちろん政府やマスコミの御用コメンテイターさん、御用学者さんはそれ以前の問題なので…それこそこの場では触れませんね)。
さてここまでつらつら批判めいたことを書いてきましたが、これは私の切羽詰まった不安や焦りからくる感想を(恥を忍びつつ)記録しておこうと思っただけで、「だからリベラル貴族さんは変わるべきだ!」と考えているわけではありません。
そうではなく、この私の批判めいた言葉を別の角度から考えていくならば、この「リベラル貴族さん」たちが許容・評価するムーブメントでは、変化は起こらないと思っています。この方々の知識や見識はとても参考になるけれども、本当の変化はその想定と違うところで起きる。選挙なら、彼らが注目していない政党で起こる。もちろん選挙はたいていの場合は民主主義のほんの一部で、暮らし方、人との繋がり、そういった日常レベルでいかに新しい一歩を開拓していくか、毎日を耕やしていくか。そこが大事なのだろうなと思って日々過ごしているところです。
長くなったー…つづく。
自己弁護めいて恥ずかしながら
※「リベラル貴族さん」についてはしたなくも個人的に引っかかった感情を記録しましたが、もちろん「左派・リベラル」の方を全否定しているわけでは全くありません。中野晃一先生の「プログレッシブチャンネル」はとても分かりやすく勉強になりました、見ていない方はおすすめです、ありがとうございます。また、色々考える上では、とても影響を受けているのが安冨歩さんの著作物や動画です。他にも、書ききれないほど、いろいろな学者さん、識者さん、ジャーナリストさん、コメンテイターさんに勉強させてもらっています。そう言ったことを前提とした上での感想と考えていただけると助かるなあと、ちょっと自己弁護めいたことも書きつつ。
(日記:2022年7月18日)