日記:暴力・回帰・永遠:「ピカソとその時代」を見に行ったけど、展示とは全然別のことをnote
実家に帰るたびに何かしら行っていた美術展。ここ数年は基礎疾患のある家族がいたため控えていましたが、このお正月、久しぶりに楽しみました。西洋美術館、表題の企画展です。
お正月だしビッグネームだしということで、とてもたくさんの人がいた「ピカソとその時代」展。
私はたいていどんな作品鑑賞も語りたいことだらけとなりますが、今回は(展示はもちろんですが)「来場の方々」の姿にあれこれ感じてしまい、こちらをnote。
うっすらとした暴力:「文化の切り取り行為」
来場者について考えだした直接のきっかけは「スマホで写真を撮る人」が多かったことです。入場した時は気づかなかったのですが、撮影OKの美術展だったのですね。あちこちでシャッター音。写真だけ撮って次の作品に行く方もいる。
資料用としての撮影ならとても理解できるし、時間がないのかもしれないし、それ以外にも理由は幾らでもあり得るし、何より楽しみ方は人それぞれです。つまり、全く問題がないはずです。
ただそのシャッター音に、「文化の切り取り行為」を連想してしまった、というのが、この日の私です。作品自体と向き合わず外径的に扱う行為を私は仮に「文化の切り取り」と呼んでいます。
植物で言えば茎の先の花だけちょん切って、花をよく見もせずに袋に入れていく感じ。こういった美術展で言えば、例えば「行った・見た」ということが自己目的になることは「切り取った」行為に思えます。
繰り返しますが、シャッターを切っていた人がそういう鑑賞をしていたということでは、全く、ありません。そんなことは、とても言えない。あくまで私が、シャッター音を契機として「考えだした」ということです。
海外では撮影OKの美術展が多いそうですが、スマホのカメラに音がしないというような文章もネットで読みました。シャッター音がなければ考え出すことはなかったかもしれない。
世の中には良いものがたくさんあり、味わい尽くすことなどできないのですが、それを1つでも多く手に入れようとした瞬間に、全て無意味になってしまう。
繰り返しますが、作品の楽しみ方は人それぞれです。
私は作品をただ雲を見るみたいにぼんやり眺めることもあれば、意味性を考えることもあるし、勝手に物語を作り出すこともあります。
大まかに言えば、作品を見るのと雲を見るのことに大差はなく、雲の正しい見方なんて考え出すとちょっとヘンであるように、作品の正しい味わい方というものを考えだした瞬間に、作品は味わえなくなってしまう。
なのにシャッター音が気になり、「文化の切り取り」が気になったというのは、何かを見る・理解するという行為自体が、抜きがたく対象への暴力性を孕んでいるからかもしれません。
ちなみに日本の美術館には珍しく模写をしている方もいました。シャッターの音や、模写の姿や、そんな来場の方々の様子をついつい眺めてしまう体験となりました。
回帰性:「新しい戦前」の表面張力
実は今回、見に行く前に考えていたことがあって、それは「いつまで海外の絵を見に行ける生活水準でいられるかな」ということでした。
比較的当たり前に享受できていたこういった文化体験は、日本全体の経済力と私の(ほんとーに)ささやかな経済力の賜物でして、それがいつまで続くだろう。
年末にタモリさんの「新しい戦前」という言葉がTwitterトレンドに上がりました。
私は小さい頃、戦後と戦前ではまったく社会が変わったと思っていましたが、本や資料画像を見る中で(例えば戦前の庶民の人気スポットだった百貨店で楽しむ人々の姿の写真などを見たりね)、それは半分正しく、半分間違っていたなあと思うようになっています。
思いのほか今と変わらない、ささやかな日常の楽しみを享受する「戦前の民衆」の姿を見ると、彼らはかつての私と同じように、その行為が不可能な時代が来るとはとうてい信じられなかったろうと思います。
ひるがえって、こうやって美術展を楽しむ2023年の今が、戦前のあの資料画像の人々と同じ立ち位置に回帰しているような気がする。
作品を楽しむ人たちの姿が、これまでの日常がこれからも続くと思っているように(表面的には)「見える」。新しい戦前にある日本の、最後の表面張力によって維持されている日常のポートレイトではないかと感じたりするわけです。
目に焼き付けておこうと思いました。
私の不安からそんな感慨が生まれたわけです。
既視感:ロダンの彫刻のシルエット
企画展の後、休憩をして常設展を見ましたが、こちらは時間ギリギリまでいても全ては見切レませんでした。閉館のアナウンスに急かされて退場すると、外は夜に近い黄昏時でした。
西洋美術館の前庭には数体のロダンの彫刻が置かれています。すると、その彫刻の影と、帰っていく来場者のシルエットがシンクロして面白い。
さまざまなものがシルエットに沈む黄昏時は、彫刻と人が最も近づく瞬間なんじゃあないか、そんな風に思えて、シャッターを切りました。
彫刻は、永遠性の高い無機物に映し取った生命の姿です。
黄昏時のほんの少しの間だけ、彫刻には本来の生命が宿り(戻り)、一方で来場者のシルエットには時を超えて共通する人の姿が宿る。そこには何がしか時の止まった永遠性があるように思えました。
連れ立って帰る来場者とロダン「カレーの市民」。
こちらは先日もnoteしたダンテの「地獄門」。閉館になってもなかなか人が絶えませんでした。
さて。そんなところです。
ちなみに常設展には、子どもの頃にあまりに素敵すぎてその前から動けなくなったモネの絵がまだ飾られていました。懐かしかったなー。
ということで、何のことはありません、私もシャッターを切りました。
しかも撮影が雑です。ものすごく急いで撮ったんです、、何てことだ。
おやすみなさい。
(日記:2023年1月8日)