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日記:見送りの夕べ(BBC放送とわが家の炊飯器)

YouTubeのBBCでは英国エリザベス女王の国葬をLIVE中継していましたね。わが家では、というか私は、その中継を流しながら、わが家の炊飯器を見送りました。


わが家の炊飯器は


保証書の日付を見ると2012年7月1日とありましたので、約10年わが家のお米をお任せしていたことになります。先日、さよならすることにしました。お米を炊けないことはないけれど、パーツが破損して、保温ができなくなったからです。

炊飯器を、もちろんそのまま捨てるわけでなく、きれいに拭いて捨てます。拭くのは息子に任せたのですが、どの程度きれいにすればいいかと聞かれて、「もし自分がその炊飯器だったときに、ありがとう、もう十分だよと思えるくらい」と伝えました。

ずっと使っていたものを捨てることを私は「さよならする」と言うのですが、本当は捨てることであり、一抹の申し訳なさと悲しさがどうしてもあります。

そういう気持ちを治めるために、「さよならする」と言い、最後に拭いて「おつかれさま、ありがとう」という気持ちを手向けるわけです。


エリザベス女王の国葬と、炊飯器とのさよなら


内釜や内蓋といった備品を洗って、ほぼ乾いたのが夜の8時ぐらい。水滴が残らないよう拭いていると、テレビに映したBBCの放送では、エリザベス女王の国葬の様子が粛々と映されています。

世界中に悼む人のいるエリザベス女王。私も直接の利害や関わりが少ない分、私の生きてきた世界秩序における象徴的な方のお一人として、自然と湧き上がる寂しさがあります。

そして今回の国葬に象徴される、彼女を悼む全ての思いに哀悼の意を捧げます、そういった気持ちになります。この出来事を抱えて人々はどこへ向かうのかなあ。見送る一連のセレモニーは、見送る人たちのためにこそ機能するのですよね。

一方で同時に、おそらく私と、ぎりぎり息子の2人が見送る、わが家の炊飯器だなあと思います。(夫はそういう気持ちが薄い)。けれど世界の数十万の人々と、日本の母子2人と、恐ろしいほど見送る規模が違うけれども、何か大切なものが共通していると思うのですよね。

私(とぎりぎり息子)が炊飯器にさようならをいうこの夕べは、同じくらい大切だと思うのです。

わかっています、人が亡くなったことに対して、「炊飯器」を引き合いに出すのは、あまりにナンセンスかもしれない、申し訳ないです。けれども、自然に湧き上がる思いと共に見送る瞬間、事の大小や多寡の意味がなくなり、ただその気持ちと行為だけが浮き上がるようにも思うのですよね。それは人が暮らすことに関わる何かだと思うのです。

テレビに映るエリザベス女王の国葬中継を背景に、洗った内釜や内蓋をさよならする炊飯器にセットしながらそう感じたのですけど、どうでしょう?

追記:
タータンチェックの民族衣装を身に纏って奏でられるバグパイプの音、とても良かったですね。なお日本の雅楽は、篳篥(ひちりき)に使われるヨシが開発などで全滅の危機だそうです。大変なことです。

おやすみなさい。

(日記:2022年9月19日)




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