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日記:「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」:アウグスティヌス講和(山田晶)_1

煉獄と地獄をどう捉えるか。そもそも煉獄はあるのか、そもそも地獄はあるのか。仏教とも比較しながら語る第二話「煉獄と地獄」から、気になったこと、今後に答えを見つけていきたい課題の備忘録。

なお、アウグスティヌス講和は、京都大学教授の山田晶さんが教会で話した講和をまとめた本です。

※煉獄と地獄について正確に説明する力を私は持ちませんが、紹介できる(であろう)範囲で言うと、許されることのない「無限の罰」が地獄。これに対し許されることが可能で、そのために罰を受けるのが煉獄です。

1.訂正:仏教にも地獄と煉獄がある。…と※課題


さて数日前、私は下記のようにツイートしました。。

しかし第二話の(10)で山田晶さんは、明確な概念的区別はないが、思想上の区別はあると述べていました。そして、仏にも救えない魂がある(地獄がある)ことを表現した文学として芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をあげています。なので、ここに訂正。

※課題:山田晶さんは芥川龍之介について、仏教の中にある、煉獄と区別された地獄の世界を明確に読み取った素晴らしい作家と語っています。それはいったいどういうことを意味するのだろうと全くわからないのだけど、気になるのでメモ

2.「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」


永遠に救われないことを意味する地獄というものが、本当にあるのか。

「地獄はない」とする考え方の根拠の一つに「神の憐れみは無限だから」というものがあると山田さんは述べています。ではなぜ地獄というものがあるか。それは人間に罪の恐ろしさを知らせるためにという考えです。要は、「地獄は方便」という考え方です。

これに対し山田晶さんは次のように異論を述べています。

そういう考え方は、神の憐れみというものを、人間の腹にあてがって考えているのではないか

表題書:P95

「私」のセンチメントに満足を与える「私の神」になっているのではないか。

表題書:P95

本当の意味でリアルな神の愛は、何もかも無条件に赦すようなものではなくて、<中略>人間の愛の観念を超越する側面を有する愛ではないか。

表題書:P95

興味深い指摘だと思いました。山田さんが指摘していることは、人が自分の想定枠内で、自分にとって「都合のいい形」で「神」を利用しているだけではないか、ということではと、私は考えています。

これは、人が理解できるものだけで構成された世界には、力がないということではないかとも思います。人の理解・想定を超えた、命自体が持つ力について私は知りたいので、このくだりを興味深く読みました。

第二夜につづく

このほかにも第二話「煉獄と地獄」、ナウシカを思い起こしたりして、色々刺激を受けました。なのでこのメモ、もう少し続きます。
取り急ぎ本日は第一夜。

(雑記)タイトル画は本文と全く関係なく、松戸市議のDELIさん。最近見た動画がかっこよかったので。絵は何度もいうけど本当に恥ずかしいのですが、100点を目指すと何もできないので現段階でアップ。丁寧に書かないと絵は上達しないらしいので、ざっと書き殴ってしまうクセは直したほうが良いか…。

(日記:2022年7月3日)

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