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日記:アイヌ神謡集は外国語文学か。そしてこの「列島」ってもっと格好よいのでは?というお話:100分de名著「アイヌ神謡集」第4回を視聴して
第4回をみました。
なお第3回までの感想はこちらにnoteしています。
和人の行ったアイヌへの行いには胸が酷く潰れます。知っているつもりでしたが、改めてその破壊性に慄然とする。そして実際に同じことが、もし自分の身に降りかかったら、言葉はしばらく役に立たないものになると思います。
子どもの頃、母親に連れられていった北海道で、のちにアイヌ初の国会議員になった萱野茂さんに観光客として会ったことがあります。萱野さんの目には、私はどう映っていたんだろう。
おもしろかったのが、明治期になってアイヌの男性にだけ「耳環」が禁じられたこと。なぜ女性は禁じられなかったかといえば、「西洋では、男性はピアスをしないけれども女性はピアスをしているから」。
欧米列強との「国力の差」をそのまま反映して己に強いた日本文化の破壊を、よりマイノリティのアイヌに強いたのですね。その追従ぶりには哀しいものがあります。
ところで私はマジョリティとマイノリティの概念は、とても応用がきくものだと大いに期待をしていて、誰の中にもマジョリティである部分とマイノリティである部分があるということがもっと当たり前になれば、マイノリティの部分に眠るものが劣等生ではなく価値であるということがもっと明確になるのではないかと思っているのですが。。。それはさておき。
「アイヌ神謡集」は「外国語文学」か
ちょっと印象的だった内容として、「アイヌ神謡集」が岩波文庫で「外国語文学」のジャンルに入っているということが紹介されました。
どう思いますか?私はこれだけ聞いた時、どうすれば良いかは難しいなあと感じました。というのは、「日本文学」とすることにも、全てを「ニッポン」で塗りつぶす暴力性のようなものを感じたのですよね。
そうしたら指南役の中川裕さんが、日本語には国内の少数民族を表す言葉がないということを指摘されました。
なるほど、それで、私も正解を導き出すのが難しく感じたのか。
「ニッポン」でまとめる暴力性とナンセンス
「日本」という言葉が近代以降の国民国家のことも意味するからややこしいのではないかしら。
私は網野善彦さんの「東と西の語る日本の歴史」という本を読んでから、この私の住んでいる歴史的文化的エリアの呼び名として、「列島」がとてもしっくりくるなあと思っています。
だから「列島文学」ってどうだろうと思うのです。
そして自分達を指す言葉だから、「列島」だけでいいんです。
「アイヌ」が「人」という意味であるように、「列島」とだけいえば、この大小様々な島からなる、浅い半円を描いた、歴史的文化的な関連性を持つエリア。
アイヌも沖縄も、大陸や半島からの移住者も(というかみんな移住者ですね)、列島に住む人々というカテゴリーでならみな等しく表すことができるのではないかしら。
※「東と西の語る日本の歴史」については何本かnoteしています。
「列島」って格好いい気がする
それはアイヌや、また一方で琉球王国であった沖縄のことだけを考えてのことではありません。「東と西の語る日本の歴史」を読んでおもしろかったことは、近代以前の日本列島の各地域それぞれがとても自立的に、それぞれの地域・文化特性を活かした蠢きをしていたということでした。
北陸、東日本、西日本、九州。それぞれに、巷で言われる「県民性」というような牙を抜かれて受け入れやすい形に昇華されたものではなくて、もっと強みと弱みが甚だしい、尖った地域性が見られておもしろかったのです。
それ以来、「ニッポン」でまとめることがとてももったいなく、ナンセンスに思えています。せっかくいろんな野菜や骨を使って作ったスープにコンソメキューブを入れちゃうような暴力性というべきか。。。
まるで白粉を塗りたくるように「近代以降のニッポン」で塗装された、のっぺりとした「ニッポンジン」でなく、エリアごとの顔と活力を育めるなら、それはもっとクールな列島の姿になると思うのですけど、どうでしょう?
アイヌだけでなく、琉球だけでなく、北陸人の顔があるわけです。西国人、東国人それぞれの生き様や顔があるわけです。そんな列島はカッコよくておもしろそう、とか思うわけです、おやすみなさい。
(日記:2022年10月5日)