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日記:「在りつつある」うれしさ:第四話「創造と悪」: アウグスティヌス講話(山田晶)_5


若い2人の宗教者


アウグスティヌスの若い頃の疑問。
「もし神が世界を創造したのであるならば、何故この世界に悪が存在するのか」。

同じく道元の若い頃の疑問。
「もし世界が成仏しているのならば、何故われわれは成仏を求めて修行しなければならないのか」。

山田晶さんは、この時代も宗教も異なる2人の若者の問題提起と、さらにはその解決の方向が非常によく似ているという、その比較を通して創造ないし暮らし(行)というものがいかに実現されていくものなのか、解き明かしています。

私は仕事でも私生活でも、何か書いたり描いたりすることが多いですが、そういうことを抜きにしても(というかむしろ、そういう所謂「クリエイティブ」に限定しない方が良いです)、とても興味深い内容でした。

世界は「創られて既にあった」のではない


山田晶さんが解き明かす「創造」は、私が「noteってやる意味あるかなあ?」から「うん、やるか」に至った理由ととても似ているものですが(私の考えていることはまだいつか書こうと思うのだけど)、なかなかに素敵なものです。

大切なのは世界に向き合うスタンスで、アウグスティヌスも道元も、若い頃は世界を自分とは異なった存在として対象的に見ていました。世界は「創られて既に在った」。

けれども2人は、そこからスタンスと考え方を変化させます。「世界は自分の外にある」のではなく、「自分も含めたものとしての世界」であり、自分自身を「世界を成立させる本質的な一部」であると自覚します。その考えの中では、世界は既に創られたものではなく、今まさに「創られつつ、在りつつある」ものとなる。こういう受け取り方をしたところに、「なぜ悪があるのか」「なぜ修行をするのか」の問題解決があったと山田さんは述べています。詳しくは「ぜひ読んでください」。

「在りつつある」うれしさ


ところで私はこの、「創られつつ、在りつつある」という表現、とてもワクワクします。「創られつつある」だけではないところがワクワクのポイントだと思いました。

「在りつつある」。つまり創られつつあるのだけど、未完とは言いきれないニュアンスがある。完全と対比しての「未完」なら嘆きが入るのですが、「在りつつある」と言われると、創られつつあるその運動状態自体も、意味であり祝福するべきものという気持ちが入らないでしょうか?

これは山田さんが書いているのではなく、私の感想で、キリスト教も仏教もそれぞれ「最後の審判」やら「成仏」やらがあるらしいので、その観点から見た時に私の感想は、完全な誤読によるワクワクである可能性が高いです。

つまり今回は読書の途中から、自分の思いつきにジャンプした、そういう読書です。けれどもこの思いつきも我が大切な論点として、「明るい森」の苗床にでもしまい込み、読書を続けようと思います。

この第四話「創造と悪」にはそれ以外にちょっと面白い「なるほどー」があったので、それはまた次回に書きたいな。

(雑記)
もうすぐ新月ですね。昨夜は舅が一時的に倒れ、救急車のお世話になりました、結果大したことがなくてすぐ自宅に戻ったのですが、1日1日は本当に儚いものだと思う。それはそうとしてもっと思うように絵を描けるようになりたいなあ、いや「在りつつある」ことが大切なのか…。

(日記:2022年7月24日)

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