おっさんがなぜおっさんで居続けられるのか
おっさんとは絶望が現実化した姿である
おっさんとは絶望である。
おっさんとは年齢ではない。
おっさんとは性別ではない。
おっさんとはルッキズムではない。
おっさんとは、
この世の不条理と現実の過酷さ
夢の無さ
欲望と怠惰と慢心と傲慢の成れの果て
敗北者の末路
人間が死ぬ直前
老化の恐怖
時の残酷さ
孤立と孤独の悲惨さ
冷遇の地獄
努力の無意味さと無力感
をまざまざと感じさせる概念である。
他者には「もし自分がそのおっさんであればすぐにでも自殺を選ぶほど苦しいのになぜ生きていけるのか」というそのメンタルが理解できないので、その他者は恐怖を感じるのである。
ゆえに理解不能存在(キモい)として扱われてしまう。
おっさんはゾンビのような存在だ。
おっさんは自分がおっさんであることを自覚していない
おっさんは自分のことをおっさんではないと思っている。
「いるよねそういう人」ではないのだ。
たとえ若くてもそうだ。
他人がおっさんであることは簡単にわかる。
だが自分がおっさんであることは簡単にはわからない。
「今自分はおっさんになっていないか」と絶えず自己検閲しなければ、容易におっさんになる。
おっさんは、自分のことをせいぜいLv3ぐらいのおっさんだと思っている。
しかし自分でLv3だと思っているおっさんは、周りから見るとLv5000ぐらいあるものだ。
おっさんは、自分のおっさんではないところだけを見て希望を感じている。
だから自分ではLv3だと思ってしまう。直視すると死ぬ。
おっさんは、自分がおっさんでないと思っているから改善できない。
そしておっさんだと自覚してしまえば死を選びかねない。
薄々それがわかっているから自覚できない。
おっさんもかつては少年であった
おっさんもかつては少年であった。
いったいいつからおっさんになったのだろうか。
徐々になっていった。
少年の頃から少しずつ罪を重ねて、そしてとうとうおっさんになってしまった。
おっさんは日々の生活を他責にする。
他責にせざるを得ないこともたくさんあっただろう。
おっさんの人生は、まさに苦難の連続であった。
その苦難を耐え忍んだ末の姿がおっさんなのである。
これは偏見だが、25歳を超えるとおっさん化が始まる。早ければ18歳で来るのだ。
おっさんは少年の頃を思い出さなければならない。
誰もおっさんを助けてくれない
おっさんがおっさんで居続ける限り、誰も助けてくれない。
おっさんは、おっさん自身でおっさんを助けなければならない。
よりよく自分を認識しなければならない。自己責任という話ではない。
おっさんは、自分の何がおっさんなのか実はもうわかっているはずなのだ。
それだけの人生経験はある。
でももう取り戻せないとか、やっても無駄だと思っている。そうする余力も活力も希望もこの世にはないからだ。
そうした諦念がおっさんにはある。その諦念の塊こそがまさにおっさんである。
やるだけ無駄、やっても意味ない、その積み重ねがおっさんである。
やりたくない、めんどくさい、その積み重ねがおっさんである。
おっさんとは絶望である。
希望を感じているおっさんは、もうおっさんではない。
おっさん、続けますか。
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