好きが好きな自分が好き。
「一番好きな食べ物は何ですか?」という質問の返答にいつも困る。
好きな食べ物はあれど、一番と言われると途端に答えが出てこなくなる。ラーメンも、チョコレートも、柿の種も、卵かけご飯も、コーヒーも、鍋も、ぜんぶ好きじゃダメなのか。好きに順位付けを行うことに疑問を感じてしまうのだ。
彼女から「私のことどれくらい好き?」と聞かれることがあるけれど、これも返答に困っている。好きの深度というか、強度というか、そういったものを測る術をぼくは持ち合わせていない。あなたのことが好きじゃダメなのか。ドキンちゃんが食パンマンを好きなぐらい好きとでも答えればいいのだろうか。いや、それでも自分の好きを上手く伝えられている感じはあまりしない。
推しがいる人をSNSで見かける。テレビに推しが出ていれば、リアルタイムで観るのはもちろん、録画をして何度か観る。推しに関係のあるグッズを買い漁り、集める。可能であれば推しに会いに行く。一番好きか、どれくらい好きかに関わらず、推し活に没頭する。それがとても羨ましい。
自分には推しのような存在がいない。いないというか、推しと認められていないだけかもしれない。好きなものはたくさんある。でもどれも他の人と比べてしまって、「これぐらいじゃ、推しとは言えないかも」なんて自信を失う。羨ましさの裏には、劣等感が潜んでいる。自分もそこまで好きになれたらいいのに。競争させる必要のない「好き」を勝手に比べて、勝手に負けたような気になってしまうのだ。
好きを比べてしまい、圧倒的な敗北感を抱いてしまうのは、多分自分のことが好きではないからなのだと思う。2つ上の兄との比較に苦しんだ小・中・高校生時代。どんなことでも、兄には到底敵わなかった。ゲームも、スポーツも、勉強も、恋愛も、とにかく負け続けた。だから、好きももちろん敵わない。確かにあったはずの熱く、輝いていた好きという感情が、冷めて霞んでいってしまった。いまでもその霞は晴れていない。
好きを大切にしたいという気持ちは、ひいては自分を大切にしたいということなのだろう。誰に何を言われようと、揺るがない好き。そんな好きが好き。好きが好きな自分が好き。人やものに向ける好きという感情を、自分にも向けてあげたい。
(執筆:佐藤純平)