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人生でもっとも重要な質問
はじめに
「質問力で人生が変わる」という言葉がある。良い質問、意表を突く質問ができる人は評価されやすいという文脈でよく使われる。確かに私たちは人々の質問の質からものごとへの理解度や思考力を測ったりする。誰が普段何をどう考えているのかや何にどれほど興味を持っているのかを断片的に表してくれる尺度の一つが、その人が投げかける質問というものであるためだ。
そうしたら人間の思いつく範囲でもっとも有意義な質問は一体何だろうか。人間のさまざまな属性に関係なく今この世を生きているなら誰もが疑問に思うべき究極のクエスチョンマーク、至高のハテナ。それは「死後世界についてどう思うか?」に違いない。この質問は私たちが哲学書でよく見かける抽象的で答えのわからない質問のほとんどにつながっていたりもする。そして死後世界に関する立場を確かめることによって、人生における多くの問題が解かれ、躊躇いはなくなるはずだ。
それでは、ここから死後世界の有無に関する三つの観点をまとめてみよう。
死後世界が存在しないと信じるなら
すべての人は生まれるその瞬間から、死のカウントダウンが始まる。誰かは80年、誰かは40年、また誰かは20年…多少の違いはあるだろうが、いつか予期せぬ瞬間に死たるものが訪れるという点だけは、公平に当てはまる。
大人が子供によく聞く質問の中で最も代表的なものは「大人になったら何になりたいの?」だ。それはもちろん期待心理が反映されているはずだけれど、あくまでも子供がまだ死という概念を理解していない点から「それ以上深掘りできないため」の質問に過ぎない。死が認識できるーそしてそうならねばいけぬー成人した人間にとって、最大の質問は何だろう。互いに疑問を投げかけ、自分自身に問うべき究極の質問は「死後世界の有無」だ。(残念ながら認識できていない人の方が多いが)実はすべての人間の行為は、死後世界に対する信念によって変わるためだ。知らぬうちにすべての人間の言動の裏側に敷かれた骨組み的なものとも言える。
死後世界が存在しないと信じる人は、どう生きるべきなのか。まずは「自分の命の維持」が第一順位にあるべきだ。死んだらすべてが終わるからだ。また生きている間は「思う存分後悔なく大いに楽しみながら」生きるべきだ。死んだら全部終わりなのに、瞬く間の人生なのに、他の人のために何も楽しめず死んでしまったらどれだけ悔しいものか。もし弱音になってお金を失ったり社会的地位を失ったりすれば、残った人生がどれだけ惨めで不幸だろうか。貧乏がどれほど辛いものか知っているのか、道徳とか魂とかいうものが一体何の役に立ち、何の意味があるというのか。私の人生が、死んだらそれでお終いの私の人生が壊れるというのに。何をしてでも一度きりの短い人生を大いに楽しんで幸せに生きる方が賢明だ。程よく良心も実利も守るんだと?そんな人が、良心を全部取り除いて徹底に実利のみを守る人にどうやって勝てるというのか。始まる前に、すでに負けたゲームなのだ。
だから死後世界が存在しないと考える人は、裏と表が異なる人であるべきだ。表では敵に自分の弱点を晒さないために道徳的なふりをしながらも、裏では実利にのみ集中すべきだ。バレることのない手口があれば、脱法や不法も適度に活用して先に進むべきだ。そういうところに手をつけず出遅れてしまったら、意味のない弱者として生きていたとある日に、霧のように消え去ってしまうはずだから。死んだら永遠に終結するのに、鬱陶しい弱者の人生より惨めなものがあるだろうか。人知れず汚い仕業をしながらも、富と名誉を両方持ち合わせて毎日のように山海の珍味を食べ、堂々と天寿を全うしようとする勝者たちがどれだけ多いか。幸せがすなわち正義なのではないか。あのありふれた和牛や刺身一皿さえも食べたい時に思う存分食べられず、ボロ家で一生よろよろ生きていながら死ぬ人は、完全なる敗北者なだけだ。勝者による「カネがすべてではない」という心にもない慰め方が余計に刺さってしまうような、死に踏み切れず生き延びる人生。
―「人生で最も重要な質問」中
死後世界は存在しない、だから人間は死んだら土に戻って水に流され風に運ばれながら地球を循環する何かしらの物質になるのみだ、と信じる人々がいる。意識が途切れて心臓の鼓動がその動きを失ったら「せかい」は無に帰して真っ暗な真空状態に入ると思う人々もいる。この部類の人々は大体「魂」の存在も否定する。人間の魂や意識や精神の存在、そのはたらきについて懐疑的だ。当然のように死後世界といった話は無意味で難しいと思いがちで、少しでもスピリチュアル的な話が出てくると理由もなく反射的に抵抗を見せる。
もしあなたがこの部類に属する人であれば、思いっきり自分自身だけを思って、なるべく自分自身が得するような状況を作って、出来る限り色んな快楽を楽しみながら生きることを勧める。一刻も早く、少しでも多く。安易に他人を想うふりはせず、徹底にその信念に相応しい生き方をした方があなたにとっての一番だ。
もちろんそのあと、もしかして死後世界という場所が存在していて、あなたがそれまでの人生を限りなく後悔することになる可能性が全くないわけではない。ただし、それでもあなたは自分自身でそう考えて信じて行動したのだから、自ら責任を取れば良いだけの話だ。
死後世界が存在すると信じるなら
一方、死後世界が存在すると考える人は、大きく二つの部類に分けられる。まずは「輪廻」または「転生」を信じる部類、その次は「天国と地獄」を信じる部類だ。転生を信じていれば、常に「また今度」がある。もし今回の人生が、あまりにも条件が揃わず都合も悪ければ、例えばIQが低すぎたり家庭環境が悪すぎたりする場合であれば、また今度の機会を狙うに値する。大した罪を犯さないだけで良い。殺人みたいな大きい罪を犯せば、もしかしたら犬や猫に生まれ変わるかもしれないが、それじゃなければ卑しいながらも人間に生まれ変わって引き続きチャンスが得られるだろう。だから、まず生まれてきたのなら努力をしてみるのも良いが、今回の人生が本当に辛かったら、普通になんとなく生きて死んで次またやり直せば良い。輪廻の歯車から抜け出して涅槃に入ることは、いつか条件が全部整った人生を迎えた時を狙うと容易だろう。いつも次のチャンスがあるから、今の人生が不幸でものんびりした気持ちになれる。いざ死んでみたら輪廻ではなく地獄だったとしても、生きている間はきっと次のチャンスがあるはずだと自慰しながら、適当に働いて適当に楽しんで生きていける。
しかし、もし天国と地獄で成り立っている死後世界が存在すると信じれば、話は随分変わる。この世での100年未満の人生が「永遠」を左右する。チャンスは一度きりだ。死後の永遠の命に比べたら、この世での人生が全体の中で占める比率は0に収斂する。王として生きたにしろホームレスとして生きたにしろ、何の違いもないということだ。だからこの世でのすべての考えと行動は、死後の天国にフォーカスを当てるべきなのだ。今日このまま命を捨てることがあるとしても、天国を死守しなければいけない。この世はただ、神が良い麦と毒麦を分類するために造ったある種の試験場、そして教育の場に過ぎない。実利を追求したら良い暮らしができて、良心を追求したら辛くなるように世界を設計しておいては、それにも関わらず良心に従う人がどれだけいるのかを見るための試験場だ。そこに住んでいる間、創造主に良い麦として選ばれることが、何よりも重要だ。それで天国と地獄の死後世界が存在すると信じる人々は、欲と良心との間でいつも良心を選び、自らを貧しくて苦しい道に追い込む。
―「人生で最も重要な質問」中
死後世界の二つのあり方の間で死んだ後は輪回や転生が待っていると信じる世界線の人々は、「いまのじんせい」や「いまのじぶん」にこだわる必要がない。人生を意味を考えるのも、永遠の愛や絆について悩むのも全部が無駄だ。すべては無限に繰り返される、何も特別なことはない、いつでもやり直せると同時にいつかは手に入れられるものだ。それで50回くらい輪回や転生を繰り返したら、某ファンタジーアニメのように何らかの不思議な能力を手に入れたり前世の記憶を全部取り戻したりして世界最強になれるかもしれない。それでまた50回くらい人生をやり直すうちに廃人になりかねないだろうけれど。
とりあえず輪回や転生を信じる人々は、何も心配することも考え込むこともない。今じゃなくてもいいからだ。まずはのんびりと生きよう。何とかなるでしょう。
一方、死んだら速攻天国か地獄のどちらかに送られると信じる人々は特別に注意を払うべきだ。彼らは直ちに姿勢を整えて念入りに死後世界に向けた準備に取り組まなくてはいけない。天国と地獄で構成された死後世界を信じるとのことは、人が自分で自分の行き先を選べることは不可能であることも理解しているということだし、一度どっちかに送られたとしたらーつまり死んでしまったらーそれが永遠の居場所になるということも理解していることを意味するからだ。トルストイの言う通り、人は自分の死ぬ時を知らないため、天国と地獄を信じる人々は毎日毎分毎秒を良心的に生きようとするはずだ。(地獄に行きたがる人はいないはずだから)彼らは天国にいくための工夫を続けるだろう。私が今日死ぬってなっても地獄に落とされず済むだろうかを毎日のように自分に訊いているかもしれない。
どっちにしろ立場を明確にすること
このように死後世界が存在すると信じる場合とそうでない場合は、すべての物事において完全に真逆の思考と行動をとるようになり、またそうならなければいけない。そうならないと本人たちの人生にとって何の有益にならない。死んだら終わりだと考えていながら中途半端に良心を守ったら、そんなものなんかは気にも留めない強者たちにカネも名誉も全部奪われて弱者として生きて終わるだけで、天国と地獄を信じていながらこの世のカネや名誉を追ったら地獄行きの急行電車に乗ることになる。
なのに、未だ死後世界に関する立場を明らかにせず生きていく人々が多そうに見える。まさに馬鹿中の馬鹿らしい行動だ。どちらにせよ立場をはっきりしないと、最高の効率を出せるわけがないのに。あれもこれも違うんだと選ばず生きていたら、結局は全観点から失敗した人生となる。最低でも一つの観点からは成功した人生を生きるべきではないのか。後々、これちょっと違うな、と思って立場を旋回することがあっても、まずは死後世界に対する立場からはっきりして生きることが何より重要な理由だ。
―「人生で最も重要な質問」中
死んだ後の世界なんて誰にもわからないんだから、その時になってまた考えればいいとかいう間抜けな話をする人はいないことを切に願う。もしこれまで一度も死後世界について真剣に考えてみたことがないとしても、まだ遅くない。まだ息がついている限り、考える時間も生き方を改めるチャンスも残っている。しかし死はいつ訪れるかわからないものだから、くれぐれも遅れすぎないように。
実は私たちの毎日の選択や言動は、死後世界に対する個々の信念と合致した形で成り立つべきだ。逆に死後世界に関する信念が明確になればなるほど、今生きているこの世での雑多な心配や疑問、もしくは問題が自然に解消されていく。現代人が追い求めやまない「私は何者か」「何を優先すべきか」「どれを選んでどっちに進むべきか」に対する本質的な答えにもなるし、価値観や道徳のジレンマをめぐる問題にも概ね解答を与えてくれるためだ。
やっぱり、中途半端に生きるのはもうやめた方が良いかもしれない。
sorakotoba