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【短編小説】あじさい
ある朝の出勤中、バス停の近くであじさいの花を見つけて、私は突然、三歳の頃のことを思い出した。
あの頃の私は、今のように明るくなかった。
いつも誰かの影に隠れていて、自分に言葉をかけられているとわかっていても、返事を絶対しなかった。
そのくせ家の中に帰れば、自分がお姫様になって誰でも言うことを聞いてくれると信じていた。
家の中は私の城だった。
そんな頃、ある人と出会った。
その人は、父と同じようなスーツを着ていた。
紺色のジャケットをまとって、かたわらには薄いくたびれた鞄が置いてあった。
乾き切っていないコンクリートにそっと置いてあるそれは、地面に静かに馴染んでいた。
彼はあじさいを食べていた。
ドーム状になっているあじさいの花びらを一つずつつまんで、しずかに、大切そうに眺めた後、その人は口に含んで咀嚼し、喉仏を小さくうごかしていた。
右のひざを地面につけて、あじさいと向き合っている。
そのとき私は、シンデレラの絵本を読んだばかりだった。
今思えば当時、ストーリーは全く理解していなかったものの、絵の雰囲気だけで、王子様やお姫様は理解していたように思う。
物語の最後、王子様が跪いてシンデレラの足にガラスの靴を差し出す。
あじさいを食べているその人が、王子様と重なった。
静かに戦慄しながら、でもその人はそんな私に気が付かず、あじさいを食べている。
ふと、目が合った。
お気に入りの長靴を履いて棒立ちしていた私を王子様が見ている。
「たべる?」
王子様は静かに微笑んで、こちらに花びらを差し出してきた。
私はこの時初めて、恐怖を感じたのかもしれなかった。
得体のしれない生き物と初めて会ったような、そんな違和感が後頭部を突いた。
実感すると、足がすくみそうになった。
首を横に振りながら後ずさる。
それを見た王子さまは、特に表情を崩すことなく、また自分であじさいを食べる作業に戻った。
私はそのあと何も聞けず、またしばらくそのさまをぼんやりと眺めて、そのあと家にたーっと帰った。
リビングで流れていたテレビを眺めはじめた時、洗濯物を干していた母が二階から降りてきて、
「今誰か帰ってきた?」
と、訊ねてきた。
私は首を振った。
なぜ三歳のあの時、一人で近所を歩けたのか分からない。
誰にも言わずにふらっと出たにも関わらず、母も気付かず、なんの問題も発生しなかった。
ここで思い出の映像は途切れて、私は現実に戻った。
バス停のまわりにてんてんと居る人達の群れにまぎれる。
なにかを思い出すのも、終わるのも、いつも突然だ。
今はもう、あじさいに毒があることを知っている。
あのとき止めればよかったんだろうか。
あじさいを眺めながらふと思う。
逡巡から生まれる後悔は、あじさいに似ていると思う。
寄り添うような美しい花に、毒があるなんて本当は、まだ信じられない。
咲いている間は美しく、季節が終われば黒ずんで変色していく。
あの人はまだ生きているだろうか。
想像するだけ無駄なことは良くわかっている。
それでも私は、あじさいを見るたび、彼のことを思い出すんだろう。
おわり