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「自分病気黙示録」
発症前
物心ついたころから、まわりの同年齢とくらべて、コミュニケーション能力や運動能力の発達があきらかに遅れていて「もの遅れではないか」と両親から思われていたようです。
左利きで、両手が同時に動くので、幼稚園のころは「ぎっちょ」と呼ばれいじめられていました。小学校高学年になり、少年野球に参加させられましたが、まともにプレーができず、同級生からひどいいじめを受けてから体育の授業が嫌いになりました。
中学時代にうけた統一テストでは、社会のテストで上位をとりましたが、担任の先生がクラスメイトに向かって「おやびんが100番以内に入ったのだから、おまえらも頑張れ」とハッパをかけたことをきっかけにクラスでシカトされるようになり、学校を休みがちになっていきました。
学校にはいかず、道端に捨てられていたテレビを拾ってきて分解したり、電子工作をしたりしていたので、内申はボロボロでした。なんとか県立の工業高校に進学しましたが、とあるゲームに魅了されてしまい、ゲームセンターに入り浸るようになりました。学生時代は、ゲーセンや電子工作をしていた時間以外に、いい思い出がありません。
発症時
高卒で社会人になり、大手の会社で商品開発本部に配属されました。品質検査や設計の仕事をやるようになりましたが、仕事がうまくいかず、同僚や先輩たちとの人間関係の悩みごとが重なり、抑うつ気分になって会社を休みがちになりました。そのころ、じぶんはバカだとか、勉強していないから仕事ができないんだとおもいこんでいました。
これが統合失調症を発症したきっかけでした。
しばらくして「ハゲている」「頭が悪い」「そんなこともわからないのか?」など会社の同僚からの悪口が聴こえてくるようになりました。家にいても安心できず、隣の住人から部屋を覗かれているとおもいこみ、窓ガラスに新聞を貼って過ごしていました。アデランスにいって50万円もするカツラをローンで買ってしまったり、会社の同僚を消してしまおうとナイフを買って持ち歩いていました。
そのくらい、悪口や監視されている感覚が強く、本気で信じこんでいました。「なにかがおかしい」とどこかで感じてはいましたが、親にも上司にも相談できず、ひとりで同僚の悪口におびえていました。
当時はともだちもいなかったので、ゲーセンで遊んでばかりでした。しかし、ゲームをすることは生きがいだったし、ゲームという唯一の楽しみのおかげで、聴こえてくる悪口や監視の恐怖など、精神的に苦しい日々のなかにあっても「死にたい」とおもうことはありませんでした。
結局、会社を辞めましたが、それでも同僚の悪口はやむことはありませんでした。親にも「おかしい」と思われていたようですが、症状については理解されず、四六時中聴こえてくる悪口のなかで気が狂いそうになりながら、じぶんを押し殺して10年ちかく転職を繰り返していました。日々のストレスで髪の毛はほとんど抜けてしまいました。心身ともにボロボロで生きているのがとても苦しかったです。
治療開始
20代後半になって、はじめてメンタルクリニックに通院しました。とうとう限界がきて、駅で死に場所をさがしていたときに、ホームに掲げられていたクリニックの看板をみたことがきっかけでした。藁にもすがるおもいで、賭けのつもりで診察を受けました。精神科に対して、はじめは「頭がイカれたひとが集まる汚い場所だ」と思っていましたが、いざ受診してみると普通の病院で驚きました。
主治医には、はじめは「精神衰弱」だといわれ、じぶんの心が弱いからそうなったんだとおもいました。抗精神病薬を出され、2ヶ月くらいで同僚の声は消えました。そのとき、ようやくこれは「幻聴」というまぼろしだったことを知ったのです。10年近く苦しめられてきたものから解放され、安堵したのも束の間、今度は数ヶ月後に寝たきりになってしまいました。なにもやる気が起きず、なにも感じられず、ぼんやり、憂鬱で、食べ物の味も感じられない状態が1年半ほどつづきました。
主治医からは「重度のうつ状態」だといわれ、再び地獄に叩き込まれたような気分でした。さまざまな抗うつ薬を処方されましたが、どうしても改善しないので、薬を飲むのをやめてしまいました。そうすると一時的に回復することができたのです。
これで普通に過ごせると思い、職場に復帰しましたが、設計や修理はおろか、簡単な作業の組み立てや計算、文章をかくこともできなくなっていて、結局は仕事を辞めざるを得ませんでした。
再就職したくて1年ほど求職活動をしていましたが、うまくいかず、仕方なく障害者手帳を取得することにしました。病気があるせいで仕事もまともにできないクズだと感じ落胆していたし、障害者認定をされたことが悔しく、悲しい想いでした。それからは薬との格闘の日々が続くことになります。
薬の副作用との闘い
30代のときは症状の波が大きく、激しい幻聴が現れることもありました。そのたび注射や薬の調整をしていましたが、次第に抗うつ薬や睡眠薬が増えていき、ひどいときには1日に50錠もの薬を、吐きそうになるのを我慢して飲んでいました。
すこしでも病気の辛さを吐き出したくて、毎日のように相談員に電話をしたり、面談をお願いしたりしていました。不安で押しつぶされそうで、誰かに甘えたかったのです。
主治医から勧められたこともあり、デイケアや作業所にいきはじめましたが、なかなか精神的に安定せず、薬の副作用でよだれを垂らしたり、ぼーっとしたり、アカシジアで字をまともに書けない状態でした。失禁することも頻繁にあり、そんなじぶんがみじめで悔しくてたまりませんでした。生き恥をさらして、薬のせいでここまで苦しまないといけないのだろうかとおもいました。
獄中のような入院生活
うつ状態もひどい最中、主治医に「死にたい」と訴えると、大きな病院に入院したほうがいいと言われました。精神病院に対する印象も良くなく、汚い病棟に監禁されるのは嫌だとおもっていました。最初は解放病棟に入院しましたが、別の患者とトラブルになり、暴れてしまったため、なにもない保護室へ。当時は脳が興奮状態になっていてまともな判断をすることが難しい状態でした。最初は保護室のなかでも暴れていましたが、次第に疲れ、おとなしくしていると保護室からでることができ、その後は閉鎖病棟に移りました。
閉鎖病棟では他の患者が気になって、なかなか気が休まらず、看護師が強い権限を持っていて、規則を破ると怒鳴られ、人間として扱ってもらえないこともありました。そのような環境だったので「まるで刑務所のようだ、入院患者に人権はないのだろうか?もう入院はしたくないな」と感じました。
再発と新たな出会い
退院からしばらくたって、映画館でとある作品を観てから「暴力団から金を奪われる」という症状が突発的におきるようになりました。この当時は恋愛もできていたのですが、症状と現実がぐちゃぐちゃになってしまい、破局してしまいました。どうしてこうなってしまうのだろう?自責の念と己の病気を恨む気持ちでいっぱいでした。再発は治らず、毎日通院しているうちに主治医から匙を投げられてしまい、転院することになりました。
まさに失望!失望!失望!
10年も受診していたのに。
その後しばらくして、いまの主治医に出会いました。はじめて診察をうけたとき「あなたは医者に任せっきりで相談員に甘えることが多いので、通院の間隔をあけてください。薬は効果が出るのに時間がかかるから、我慢してください。薬の整理をするので、あなたは調子が悪い時の対処法を身につけてください」と言われました。
以前のクリニックと治療方針がまったくちがうことも、不安のタネでした。はじめのころは、主治医からの指示をまもれず怒られたり、薬の変更を訴えても変えてもらえずとても戸惑いましたが、次第に症状がおさまっていき、頓服薬をのまなくても平気な状態まで回復していきました。
不安が強くてひとに甘えたくなった時は、アロマやお香を使ったり、音楽をきいて対処するようにして、統合失調症についての本を読みました。
リカバリーに向かって
調子が安定してきたころ、支援員に「リカバリーカレッジの公開講座に参加してみないか」と誘われ、はじめて、リカバリーについて知りました。医療や福祉以外にも治療する方法があるんだと知り、衝撃と感銘をうけました。リカバリーカレッジの概念のひとつに「学ぶこと」があります。学びながら心を回復させ、同時に人間性を高めていけるのです。
じぶんもリカバリーしたいとおもいましたが、本格的に通学するためには、交通費を稼がなければいけません。支援員から紹介をうけ、B型作業所で働くようになりました。昼はB型、夜にカレッジというハードスケジュールをこなすようになりました。
カレッジでは色々な立場のひとと対等な生徒、対等な講師として学ぶため、いままでにない経験で驚きの連続でした。カレッジと比べると、いままで通ってきた福祉施設はぬるま湯に浸かっている状態だったと感じました。スタッフの言うことを聞いていれば優しくしてくれたし、一種のお遊戯をしている空気感が存在したからです。
カレッジで特によかった講座は「リカバリーストーリーを聴こう」でした。じぶんとおなじ当事者が堂々と体験談を語る姿に一種の憧れを抱いたからです。じぶんも同じようになりたいと思い、努力しているうちに、カレッジでは皆勤賞を取ることができました。その後は更なるリカバリーを目指して自立訓練センターに3年間通所しました。センターを卒業した頃には、リカバリーについても学べており、人間的にも成長できたと思います。
じぶんにとってのリカバリーとは、人間的成長のことだとおもいます。こころの病気がなくても、人間的に熟していないと、一人前として社会で認めてもらうことができません。今後の目標は、一般企業の障害者枠で働けるようになることと、ピアサポーターとして活動していくことです。そこに向けて、いまはA型作業所で働きながら体力をつけたり、人間関係を円滑にする練習をしています。ほかにも、ボランティア活動や、ピアサポーターとしての活動などをおこなっています。
最後に
現在、統合失調症は寛解状態になりました。みなさんに伝えたいことは、人生は捨てたものではない。謳歌したもの勝ち。病気を治すのはじぶんの力である、ということです。
リカバリーに到達するまでには、七転八倒しながら少しずつ這いあがっていかなければなりません。たとえ今はうまくいかなくても、明けない夜はない。必ず朝がきて、心に光が差しこみます。何年経ってもいいので諦めないでいてください。パンドラの箱に最後に残ったものは希望でした。この話を読んでいただき、ありがとうございました。
語り部 おやびん