【ネタバレあり】『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』読了。本作の感想。

スタンスについて

 凡そ文章とも呼べないような感想をだらだらと書き連ねていこうと思います。個人的な日記のようなものだと思っていただければ。

ただただ悔しかった

 本作の主人公江都日向えとひなたは陰謀論的思考にハマってしまった母親をもつ、閉鎖的な土地に住む中学三年生であった。この現状を良く思っておらず、けれどその事態を好転させる術を持たないどこにでもいるような少年であった。
 この等身大の少年が、周りの人間に、大人に、「助けて」と、それを口にすることもできないその状況が私にとってはとても悔しかった。苦しい思いをしているのに、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。自分が救われることで、誰かが傷つくのならば、自分が救われることを望まない。もちろん、彼はそんなこと考えていなかったのかもしれない。ほんとにどうしたらいいのか分からなかっただけなのかもしれない。それでも、母親から向けられる悪意に似た感情を、他の誰かに吐き出すでもなく、自分の中で毒として溶かし込む彼が、一言「助けて」と言える状況になかったことが、ただただ悔しかった。
 そんな彼の声にならない叫びを、彼の美徳足る自傷行為に気づいて、それに助けられ、彼に手を差し伸べたのが本作のヒロインである都村弥子とむらえとという人だったのだろう。

愛の証明

 本作では『愛の証明』になるような『正解』とはなんなのか、ということを問われ続ける作品であったと思う。
 私自身の結論としては『そんなものは存在しない』のかなと思う。『正解』が存在してしまえば、それ以外はすべて一概に『不正解』となってしまう。そんな悲しいことがあってたまるか。すべては積み重ねなのだと、私はそう考えている。だからこそ、日向は多発性金化筋線維異形成症、通称金塊病に罹った弥子から普遍的価値を取り除き、純然たる彼女自身を愛していたのだと証明しようとしたのだろう。彼女が金塊病に罹らなければ出会うこともなかった。彼女が金塊病に罹らなければ鯨に出会うこともなかった。金塊病が世界に産まれていなければ鯨が生まれることもなかった。すべては積み重ねなのだと、私はそう考えている。

52hzの鯨

 私は幼い頃にこの52ヘルツで鳴く鯨の話を聞いて、心底悲しい気持ちになったのを思い出す。今でもこの話を聞けば悲しい気持ちになる。誰にも声が届かないというのは一体どんな感じなのか、私には想像もできない。けれど、これは私がそう感じるだけであって、当の鯨はどう感じているのか、それこそ私には知るすべもないのだ。

読了25/01/30

いいなと思ったら応援しよう!