不登校って何だろう。親の目線で思うこと。~周りの目でなく息子の気持ちを大事にしたい~
「自分の気持ちって普通に分かるものだと思っていた」
「人の気持ちを考えましょう。」と言われても「自分の気持ちを大事にしましょう」と言われることは少ない気がします。
自分以上に大事なものはないのでは?と思うのだが、なぜ、こんなに自分の気持ちについて考える機会がないのだろうと不思議に思います。
自分は嬉しいのか悲しいのか、物事から何を感じ、どうしたいと思ったのか、生きていく上で一番大切なことのひとつだと最近、私は強く思っています。
一年生の時に通っていた通級で息子を観察しテストのようなことをしてくれたことがあります。
いろんな表情の絵をみて「気持ち」を答える課題。
嬉しそうに何かを話す絵をみて、そこに息子はセリフを付ける。
「やったー。ゲームで勝ったぞ」
先生からは「これは、普通、嬉しいとか悲しいとか気持ちを表す言葉をこたえるものなんです。この子は自分の気持ちが分からないのかもしれません。」と言われました。
もちろん、息子はいろんな気持ちを感じてはいる、たぶん、とても敏感に。
ただ、その気持ちがどんな言葉で表されてどんな表情、行動をするものなのかがあまりわからないということなんだと私は理解しました。
だから、一般的な表現と違う表現をしてしまうこともある。
たとえば、困ったときも笑顔になってしまう、怒っているときはただ無表情に黙り込んでしまう。
「誰も俺の気持ちをわかってくれない」息子は息子なりの表現でアピールしていたのかもしれない、でも、相手に伝わらない苦しい思いから出た言葉だったんだなと思いました。
自分の気持ちが分からないのだから、もちろん相手の気持ちを分かるはずもなく。
息子も当時「怒られるけど、なんで先生(友達)が怒っているのかわからない」と困った顔をしていました。
いつでも、道に迷っている時のような不安を抱えていてたんだろうなと思います。
先生が指摘してくれた気持ちの話は、息子のことを考える時にとても役に立ったように思います。
とても感謝しています。
「本人の充実感を大事にしてと言われて」
学校で特に低学年では「集団行動できること」「我慢できること」が必要とよく言われました。
「我慢していました。」と褒め言葉のように伝えられ、不思議な気持ちになったことがありました。
我慢することは良いことなのか?我慢が目的になったら、ただの我慢大会ではないか‥。
確かに、忍耐というか踏ん張る力は必要だと思います。
ただ、耐えてやり過ごさなければいけない時もあるかもしれません。
でも、我慢するより「助けて」「困ってます」と助けを求められることはとても、大切なことだと本当に切に思います。
そして、忍耐や努力は「自分のやりたいこと」を叶えるために必要なスキルなのではないだろうか?と。
だから、まず我慢ではなく「自分の思っている事、願い」「自分が受け入れられない嫌だと思う事」を自分で知ることがスタート地点なのでは?と思いました。
児童精神科の先生にかかったときに「子どもは本来、成長したいという生き物です。信じて待ってください。これもできるからあれもできるだろうという考えは良くありません。学校へ行くということをゴールにしないでください。本人がやりたいと言ったこと、本人が充実感を感じられることをしてください。」と言われました。
本人の充実感。本人の満足。
この言葉を私は大事に心にしまいました。なんだかすごく納得がいくような気がしました。
他人からどう思われるかではなく、人に迷惑をかけない為ではなく。
将来の為ではなく。
今、ここにいる息子の充実感を探そうと思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?