#017_ざざっと成育歴②之四
〔思春期から青年期までの変〕
青々と茂る季節の迷路
まだ…まだ…続きまして
思春期から青年期までの章はどうしても長くなると思われる。今思えば本当にどうでもよかったことを気にしすぎたあまり、自身を保ちながらその場を回避するために行っていた、私なりの戦略が仇になってしまった時期になるからだ。中学の頃から行っていた私なりの戦略が自身を蝕んでいくことになる。いわゆる、良かれと思ったことが仇になってしまったのだ。
分類と分析
私がその当時行っていた戦略は、②之弐にもあるように脳内で感情を分け、ネガティブなことは〝ブラックボックス〟にしまい込んで、できるだけそのことは深く悩やまず触れないようにした。それと、人間関係の中で上手く立ち回れなかったことから、他者をタイプ別に分類し、他者の〝行動や発言〟がどういった意味を持ち、そして、それらに対し自身がどういった対処をすれば、自分が〝嫌われる〟こともなく〝相手を傷つける〟こともなく上手く対応できるようになるかのかを自然に分析をするようになっていった。それらは、発達障害の世界に足を踏み入れたことで知った〝応用行動分析〟のようなことに〝あたる〟のかどうかわからないが、実は、中学生の頃から試みていた自己援助でもあった。だからといって、当時〝心理学〟や〝自己啓発〟などの著書は読んだことはなかった。後、自身がいろいろと〝思考〟していたことが〝哲学する〟ようなことも自然と行うようになったのだが〝哲学〟に関する著書も読んだことがなかったし、未だにニーチェの著書すら読んでいない(苦笑)。
なぜ、本を読めなくなったのかは、他に理由がある。小学校高学年から教科書以外の著書に興味を持たない限りは、読もうと思わなくなっていた。それでも、小学生の頃までは〝図書委員〟になるくらい本が好きだったし、図書カードの裏までいっぱいになるくらい借りて自主的に読んでいた。こういった話をすると〝親の方針〟だと誤解する人たちが一定数現れるので、一旦ここで否定しておかないといけないことがある。
我が母は、教育熱心なほうでは人だったと思うが「読み聞かせをしたことはない」とドヤ顔するくらいの人だ。そして〝勉強しなさい〟と言われたことはあるが〝本を読みなさい〟といわれて育ったわけではない。おそらく、学校の指導で読むようになったのかもしれない。一時期は貪るように読んでいたのに、いつのまにか読書から縁遠くなっていった。大人になってからは、自身の仕事がDTPオペレーターだったことから、PCの使い方やソフトの使い方やデザインに関する著書を読んだり、息子を出産してからは育児書を読んだり、障害が発覚してからは障害や療育に関する著書や当事者の著書などは読んではいたが小説を読むことはなかった。一度社会からドロップアウトする間際になり、スピリチュアル関連や自己啓発、占いが主ではあったが、この頃から少しずつ小説も読むようになり、そのことから入院していた数年の間は何十年ぶりかの『読書ブーム』な時期があったのだが、その後は読める時と読めない時の差が大きく、最近はあまり読めていない。それは視力が悪くなっているからだ。ついにやってきたかもしれない老眼のせいで…。それでも、私は読書家ではないと思っている。それでも両親よりは、読んでいると思われる。そんな私の血を引き継いだのか、私が貪るように読んでいた時期と同じ歳の頃に息子も本が好きで図書室を利用していたらしい。 息子が産まれてから、絵本などは買ってはいたのだがあまり興味がなさそうだったので、読み聞かせをすることはしていなかった。私が心身ともに壊れてしまったことから、息子が小学2年生の頃から施設入所することになり入所先から学校へ通学していた頃、エコラリアや奇声を上げることはあっても〝発語〟することが稀なタイプの子どもだった。そんな息子だったが、学校の休み時間は図書室で本を読んでいたそうだ。どんな本を読んでいたのかはわからないのだが、図書室を好んで過ごしていた時期があり「本が好きなようです」と学校の連絡帳に書いてあったことがあり親の私のほうが驚いたくらいだった。
世の中では方程式のようなメソッドで、IQがあがったり、学力があがると思われがちだが、自身のこれまでの体験や知的障害がある息子の成長をみていると、方程式のようなメソッドでIQの数値があがったり、学力が向上することはあったとしても、その方法がその人に合うどうかのほうが、よほど大切なことだと思うようになった。それに、私はこれでも、中学までは成績は良いほうではあったが、高校生の頃は中の下だった。母校の偏差値は県内でも下のほうだったし。現役で国公立大学に一発合格した弟とは違い、私はむしろ〝頭は悪い〟と思われていたし、私自身そう思っていた。今現在も自分は〝頭が良い〟とは思っていない。てへぺろ。
知的好奇心は、自我が目覚めはじめるのは1歳代からになると思うが、自我の目を摘んだり〝方向性〟を変えてしまう一番身近な存在が〝親〟だと思う。そして、その子に纏わる〝大人〟だ。そう思うようになってからは、知的障害を伴う自閉症スペクトラムの息子だからといって、彼の興味・関心の芽を摘みとることのないように努めてきたくらいだ。
その子の好奇心の芽を摘むことはなくても、その方向性を変えてしまうことは、知的好奇心の芽を摘むことになりうるということも〝ある〟ことに気がついてない大人が多い。それが〝思考停止〟と言われる状況にもなってしまう人もいる。そして、そういったことが、実は〝支配とコントロール〟といわれる状況になると個人的に思っているが、これは、特殊な境遇や特殊な環境下で育った人に限定されたことではなく、一般的なごく普通の家庭でも当たり前に行われている行為であることに気がついていない人がこれまた多いように思う。そして、その目覚めた〝自我〟を段階に応じて自己統制していく時期が〝第一次成長期〟と〝第二次成長期〟なのだと思う。その2段階の成長期に、家族を含む周囲とのかかわり方が、他者によって〝行動抑制〟されたり〝誘導〟されることなく〝自己統制〟していくことが大切なことだったのだなと自身の体験を通して強く思うようになった。
そして、そういった時期に、回りくどい見えない〝魔法の手や言霊〟が、人によっては、後々〝生きづらさ〟となってしまう〝起因〟になってしまっているように思う。それは、発達障害だからという括りではなく、どんな人にも当てはまることでもあるように思う。
ただ、先天的な不具合がある場合には、それらが本人に顕著に現れやすいだけだ。だからこそ〝早期発見〟や〝早期診断〟又は〝療育〟が大切だと思うし、親以外の誰かのアドバイスも必要になるのだと思う。特に、発達障害の場合には、周囲の関わり方や関わる人たちの個体を観察する目に〝偏り〟があると見逃されやすい。しかも、親によってはその〝歪み〟を受け入れられないケースもある。ましてや、親が歪んでいて〝子ども〟をオカシイと位置づけてしまう親だって一定数存在する。そういった場合、最悪のコースを辿ってしまい悲しい結末を迎えているのが現代でもあると思うし、ようやく社会的な問題として扱われるようになったと私は感じているのだが実際はどうなのだろうか?
経済的に豊かで治安も良い日本という国に生れたはずなのに、気づいたら実はそうでもなかったことを知らしめさせられているようにも思う。何もかも豊かでなければ、壊れてしまうような〝個体〟は、アンドロイドを育てているのと同じではないのだろうか? ただ、そういった状況になったのは、様々な歴史的背景の積み重ねがあったからこその〝現在〟であると思うと、こうなってしまうのは〝仕方がなかった〟ともいえる。
ただ、私は思う。きっと、どこかの段階で、気がついていた人たちは一定数いたハズだっただろうに、なぜ軌道修正できなかったのだろうかと…。だからこそ、現在起きているコロナ禍に限らず、様々な災害が起きるたびに思い知らされている人たちも存在するハズだ。いかに自分で考え判断をし行動できなくなっている人が多いかということを。そんなことを一人でも多くの人たちが気がつき、軌道修正していくことで未来は変わっていく。だから、今現在不具合が起きている場合には、過去データを精査したり、他者を責める前に自身にも不具合がなかったのかを知り、又は、自分責めしていた人たちは、本当に自分だけが悪かったのかどうかを一度考えてみる時期でもあると思う。そして、一旦、それらの過去データをどちらも認めて受け入れ、今後、自分はどうしていけばいいのかを考察していくほかないと思う。また、同じ歴史を繰り返さないことは〝負の連鎖〟を繰り返さないことにも成りうるからだ。気がついたらやり方を変えてみるだけだ。いわゆる〝トライ&エラー〟になるが、大きくブレていた振れ幅も〝やり方〟を変えることで、そのブレが小さくなっていき、他者に手伝ってもらっていたことが〝自己統制〟できるようになっていけば、多少のズレがあり完璧ではなくても、その人にとって〝楽〟な状況であるならそれでいいのではないのだろうか? そして、その方法や方向性は多くの人たちと同じでなくてもいいと思う。同じやり方で統制される必要がないのが個体でもあるからだ。あっ。なんかいつの間にか話が壮大になっているwww。
さて、話を戻そう。著書を読むことについて過去を振り返って思うのは、学年があがるにつれ文字がだんだん小さくなっていくことで、文字を追うことが苦手になっていたのではないのだろうかと思う。ということは、すでにその時点でインプットがすぎて頭の中がパンパンになっていたのかもしれないし、上手く発散できてなかったのはないかと思う。それは、軽い抑うつの状態でもあったのかもしれないなんて思ったりもする。
それでも、当時に行っていた私なりの自己分析は〝戦略〟になってはいたけれども、それが〝自己受容〟するまでにはいたっておらず、逆に自身を追い込み、より複雑化してしまったのだと思う。そういったことに気がついたことで、自身がこれまでに自分なりに行っていた自助努力や自己援助が全部無駄だったように感じ、正直、項垂れたこともある。そして、過去にしていた〝サバイバルな失敗〟に気がつく度にイチイチ〝バツ〟をつけては、自分責めをし落ち込んでいた。ただ、3年程前に今現在の私へ〝変体〟してしまったことで、生まれてからこれまでに起きた、全ての〝失敗体験〟も〝成功体験〟も丸ごと受け止められるようにはなった。自分でも驚くほどタフになったのだが、身体は弱くなっている。(無、無念…)
ただ、30年という年月は結構長い。私が中学生の時に生まれた子どもたちが現在30代になっているwww。もういいオッサンオバサンといわれるくらいの年齢なのだ。下手すれば結婚もし、子どもがいたり、ある程度の役職にもついている年齢にもなっている。30年の月日が過ぎて去ってしまった現在は、あっという間に感じるものだが、その最中は、見通しのない〝未来〟に希望を見出しながらも、藻搔くほか無かったワケで…。それでも、こうして過去を振り返っていると、ちょっと胸は〝チクッ〟と痛むことはあるが埃だらけの部屋が掃除機で一掃されていくような感覚も感じているので〝良き〟ことにしておく。
ファーストペンギン
『価値観の違い』は、同級生だけに限ることではなく、住んでいた地域が天草なので『陸の孤島』と呼ぶ人もいるくらいな海辺の小さな田舎町だったからでもあると地元を離れるまでそう思っていた。
現在、世界中がコロナ禍で社会経済まで被害が及んでいる状況だが、私が産まれるずっと昔、天然痘が流行した頃は、無人島に島流しをし隔離されていた歴史があるが知らない人は存在するのだろうか? 私の生まれ育った地元でも、天然痘が流行った時代に、町から見える無人島に島流しされていたこともあり、隠れキリシタンを発見するために踏み絵が行われていたことも町の歴史として残っている。しかも『陸の孤島』と呼ばれるような場所だ。天草五橋が開通してからまだ50年程度。それまでは、船で内地へ渡っていたのだ。そして、そんな場所で生まれ育ち、生涯を終えていく人たちが大半だったからこそ、凝り固まった保守的な人が多かったんだろうとも思う。そうでなければ、現代とは違い、より、そういった地域で生き延びることは難しかっただろう。だからこそ、周囲と同調することが〝戦略〟になっていたのだろうとも思う。それがマイノリティな人たちを魔女狩りするようになっていったことにもなっていたのだろうとも思うのだが、こういったことは、太古の昔から続いていたことでもあったのかもしれないよなぁと思うと、自分が産まれた地域に、何故、私は馴染めなかったのかといった疑問や地域の人たちとの〝価値観の違い〟に苦しんだ意味も腑に落ちた。ああ、だから、私も価値観の違う他者のことを理解できていなかったことに気がつくことができた。それが〝他者を理解する〟ということが〝自己理解〟にも繋がるのだなと思うようにもなった。
私の知らないみえない水面下で、その地域の人々に引き継がれていた〝悪い癖〟が悪戯をして、日常生活における様々な行事や冠婚葬祭など…、古来から地元で行われてきた近所づきあいや習慣又は習わしが、時代と共に変化することのないまま、どこかの時代から〝悪しきモノ〟へとなってしまった物事もたくさんあっただろうと思う。
ただ、そんな〝悪しきモノ〟を変えようとする開拓者が現れようなら、陰口や、遠回りに虐められたり、仲間外れにされたり…。屈辱を味わうこともある。それでも、開拓者を虐めたり、魔女狩りをしていたたちにとって、開拓者の〝新規導入案〟により、自分たちにとって〝楽〟になったり〝大丈夫〟だった経験をすることで、いつの間にか誰かが切り開いた〝新規導入案〟が当たり前になっていく瞬間を何度もみて育った。そういった〝悪しき習慣〟をぶっ壊していた開拓者、いわゆる〝ファーストペンギン〟の立場になっていた人が、我が母だった。
母が今までとは違う方法でやってみる度に、いろいろ陰でいわれていたこともあったようだが、そんなことは〝気にしていられない〟といって、やってのけていた人である。
自分の信念を曲げずやり通してしまう、そんな母が羨ましくもあり尊敬でもあったのだが、その反面、母の悪口を聞いたりするのは辛かっただけでなく、だから、私も孤立してしまう原因になってしまうのかなぁ…なんていった思いも持つようになった。いや、母のせいではなく、私の場合には、十分私自身の問題でもあったのだが…。
ただ、まだこの世に生れて10数年しか生きておらず、経験値も少なく、その土地の事情を知らなかったからこそ〝両親のせい〟にしていたような気もする。それに加えて、当時、その地域で、母は一人で食堂を切り盛りしていた。その食堂には、地元で一人暮らしをしている学校の先生方が朝夕の食事を契約していたので必然的にほぼ毎日学校の先生が出入りしていた。だから、地域の人たちの中には、私や弟が学校の先生方に〝依怙贔屓〟されていると思っている人が存在していたからだ。
私や弟にその環境は降って湧いたようなものになるので、自分たちの意志ではどうにもならない状況だった。でも、よーく考えてみると、学校の先生だからこそ〝依怙贔屓〟するわけがない。と思うしかなかったし、現に先生たちから〝特別扱い〟されたこともなかったし〝依怙贔屓〟されている感覚を感じたことは全くなかった。(えっまさか、鈍感だったから気がついてなかっただけなんだろうか…?)むしろ、その逆で、そういった〝感覚〟を感じさせないように、逆に他の子たちに先生方は気をつかっていらっしゃったように感じていた。それでも、そういったことを改めて先生方に聞いたことはなかったので、なぜ、その時、先生に相談しなかったのだろう…そんなことを思う。おそらく、自身の悩みを両親に知られることも嫌だったからかもしれない。ようは〝ブラックボックス〟行き案件だったから記憶にないだけなのかもしれない…。
両親は悪くはないのだが、両親の〝価値観〟や〝考え方〟が原因で、私は実際に嫌な思いをしたこともあった。下の弟も私とは別なことで嫌な思いをしたこともあっただろうと思う。ただ、弟は、私とは違い、更に自身の気持ちを誰かに吐露するようなタイプでもなかったので、その当時どう感じていたかは、話したことがないのでわからない。ただ、私の場合には〝この地域だから仕方がない〟と自分を嗜めていた。
〝〇〇だから仕方がない〟という言葉は、この当時から、自身の中に渦巻くアレコレを抑えるための数ある呪文の1つになるが、こうした経験が今現在の私を支えてくれているなとも思うし、信念を持って突き進む母の後ろ姿を見て育ったこともあり、母のように自分なりに模索しながらも突き進み行動できるようになれていることは嬉しく思う。
自己改革後に起きていた様々な〝壁〟が現れる度に、自分なりに模索し、その時々に合わせて様々なことを越えてこれたのは、そんな母のDNAを受け継いでいたからでもあるのだろうとも思う。細胞レベルで遺伝がないとは言い切れないように思う事柄の1つでもある。
そんな母でも、黙々と何かをこなしながら悔しそうにしている後ろ姿を何度か目にしたことがあった。そういう時は、母に近づかないようにしていた。 ただ、1度だけ覚えている悲しい出来事がある。
私が小学生の頃の夏、親戚が帰省していた。夕食後、何かが原因で、台所にいた母が、突然『買い物に行く』といって家を出た。いつもは鈍感な私でも母の様子がオカシイなと心配になり、母を途中まで追いかけたことがある。
真っ暗な夜道の先にあった、店の灯りで母のシルエットが浮かびあがっているあの一瞬は今でも忘れられない。普段とは違う母の後ろ姿を見て、このまま母は家に戻らないんじゃないかと子ども心に思った。たった数秒にみたない動画なのだが、その時の〝怖くて悲しかった〟感情までギュッと圧縮されて残った記憶だからか未だ鮮明に覚えている。
その日の出来事は、大人になりその時の理由を母に教えてもらったことで、私の中で握りしめていたモヤモヤした感情が一旦解消されることにはなった。
母曰く、我が家の事情をしらない親戚が、母のプライドを傷つけるようなアドバイスをされ、それがとても腹立しかったらしく〝怒りが治まらなかったので頭を冷やす為に買い物に出た〟ということだった。その理由を聞いたことで『なーんだそういうことだったのかー』と思い、その案件は私の中で一件落着していた…と、思っていた事柄だったのだが、自身を癒すために習ったTCカラーの講座で再熱することとなった。
再熱したことで、それがいったいどういうことだったのかというのを当時の師匠と講座の中で掘り下げていた所『母に見捨てられる』という〝不安〟の根っこにもなっていたことがわかった時は、新たな段階へ進んだ。
それは一体どういうことかというと、実は私にとっての本当の意味での〝課題〟は終わっておらず、もっとより深い部分で不具合が起きていたらしいことがわかったことから、パラダイムシフトするきっかけとなった。この件については、自身が治癒していく過程の中で詳しく触れたいと思う。
シンプルに説明すると、大人になるまでに身に着けた〝常識〟を覆していくことを試みはじめるきっかけとなったのだ。私は古い常識や価値観の中でもがいていただけに過ぎず、いい子を演じていただけだったことを再確認したのだった。そういった私に染みついた古い常識や価値観を変えるために〝今までの常識を捨て行動する〟ということが必要だと気がついたのが、今から5年程前になる。