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#009_ざざっと生育歴①之壱

生まれてから思春期までの私のこと〕

ワタシが産まれる前のこと

 父方の祖父は、満州事変の時朝鮮半島に渡ったが、戦争中に寒さで手の指が凍傷になり指を切断することになったので、途中帰還することになり戦死を免れたと聞いている。 後、水俣に住んでいたこともありチッソ工場で褌一枚で働いていたこともあるそう。 父が生まれる前かその後に、水俣から現在の天草の実家へ家族で引越したという話を父方の伯母に聞いたことがある。それからは農家で生計を立てていたそう。 祖父は養子で曽祖父になる人も養子だったとのこと。曽祖父の時代には高利貸しを営んでいたのだとか。 母が嫁入りし家を改築する際、屋根裏にその当時の証文がたくさん出てきたという話を聞いたこともあった。
 祖父は水俣から本家になる実家に帰ってきた後に、体調が優れない時期があったようで、かかりつけの医師に水俣病の症状だといわれたようだが、それを聞いた親戚が

「地元から水俣病患者がでれば、風評被害になり地元で漁れた魚が売れなくなるから国の申請はやめて欲しい」

といわれ、水俣病の申請はしなかったのだとか。
 父の兄弟姉妹の1番上になる伯母は聴覚障害者だ。私が高校生の頃までは一緒に住んでいた。 伯母の障害の状態は、振動は感じるが耳が聞こえず話すことはできない状況だった。当時は視覚に問題はなかったが、その後、緑内障を発症し施設入所をすることになった。
 伯母は特別支援学校だけでなく、義務教育も受けられていない状況だったようなので知的な遅れがあったかどうかはわからない。 ただ、私の拙い記憶を辿ると、おそらくあったのではないか?と思う。 私が学校で文字を習い始めた時、伯母に文字を教えたことはあるが、カタカナくらいはかけてもそれ以上の文字を覚えられなかっただけでなく、文字を覚えようという気持ちもなかったようだった。
 そんな伯母が小学校へ上がる時、自宅を離れ寄宿舎のある聾学校に通学する話が持ち上がったようだが、親戚にあたる人たちが「まだ幼いのに家族から離れ寄宿舎に入れるのは可哀想」だといわれたこともあり、祖父母も思い留まったのだそうだ。
 だから、よく母と話すのが、伯母が聾学校に通えていたらもっと違った人生を歩いていたかもしれないし、経済的自立ができたり、結婚さえできていたかもしれないよね。 手先が器用な人だったしね。といったことを話すことがある。それは、私の息子も知的障害を伴う自閉症スペクトラムで、決して一人では生きてはいけない障害者だからだ。
 田舎だけではないと思うが、他所の家の状況を外側からみたり、その場しのぎの優しさやエゴで他所の家の事情に口を出し、本来受けられたであろう〝治療〟や〝支援〟や〝教育〟を受けられなかった人たちが、私の伯母のように、一定数存在すると思う。 田舎だからこそ、隠すことのほうが難しいがそれでも座敷牢状態な人たちもいたようだ。
 祖父や祖母がもし、伯母の未来を見据えて早いうちに手放せていたなら、伯母にとってまた違った人生になっていたんじゃないのだろうか?ということを祖父母と同じ立場になった私は、現在の伯母の状況を知っているからこそ強く思う。そのことから、人一倍、我が子の将来を案じてしまうことにもなっており、負の連鎖を紡がないような教訓にもなっている。
 人生の岐路に差し掛かった時、どこでどんな選択をするかがとても大切だ。だからこそ、親なき後のことを考えた〝今〟何をしておいたらいいのかを大切にしている。そして、我が子を育てる上で、それらが羅針盤にもなっているのだとも思う。

 母方の祖父はカツオ漁船のコックさんだった。お酒が好きで普段は口数が少なくお酒を飲むと陽気になっていつもより口数が多くなる。孫全員の心配をし、何かがあるたびにお祝いをしてくれていた。孫みんな平等に爺ちゃんなりに大切にしてくれていた。そんな爺ちゃんのことが大好きだった。
 大人しく穏やかな爺ちゃんとは正反対な祖母はとにかく怖かった。生命保険のセールスをしていて、タバコを吸っていた。何かやらかすと怒鳴られるので背筋がシャンとなるくらい緊張することもあった。そんな婆ちゃんは、長男の孫とそれ以外の孫をハッキリと区別していた。鈍感で空気が読めない私でも区別されていることを肌身で感じていたからだ。それでも、婆ちゃんなりの優しさを感じることは多々あった。
 父方の祖父は、私が産まれる前にすでに他界していて、祖母は健在だったのだが祖母の記憶はほとんどない。私が2歳になる前にくも膜下出血で亡くなった。母方の祖父母にとって私は初孫だった。だからといって、祖母に特別に扱われたことはなかった。それでも、時々、祖父母の旅行に一緒に連れて行ってもらっていたし、何かの際には祖父母の家に泊まることを楽しみにしていた。
 祖父母との一番の思い出は、夏に水俣の湯の鶴温泉へ湯治に行くお供をしていたことだ。毎年ついて行ったわけではなかったが、私にとって祖父母との思い出の中で、忘れられない楽しかった思い出の一つだ。祖母は阪神大震災の2つ日後に癌が原因で亡くなり、祖父は長生きをしたが胃がんが原因で亡くなった。

 そんな祖父母の元に産まれた私の両親は、2人とも身体能力が人並み以上?だったらしく、父は短距離で国体の予選に選手として選ばれるくらい足が速かったそうだ。国体予選当日、朝礼の時倒れてしまったことで予選に出場できなかったらしく、自衛官も辞めることになったらしい。父の話では、レンジャー部隊にも所属されたことがあると聞いたが本当なのかどうか定かではない。
 小さな頃は父の昔話を聞くことが好きだった。父の昔話の中で今でも覚えていることは、食べられる雑草や食べられる木の実などを教えてもらったことだ。 その中でも特に印象深く覚えている事が〝カタバミの根っこ〟が食べられるということだった。 なんで、印象深く残っているのかというと、父と一緒に自宅前の庭でカタバミを見つけ、根を掘り起こして食べたからだと思う。意外にほんのり甘くておいしかったことを覚えている。だから、カタバミをみるとそんなことを思い出す。 後は、父は絵が上手だったので、よく好きなキャラクターを父に模写してもらっていた。それと、地元の夏祭りで、必ず父はカラオケで歌っていた。そんな父がすごく羨ましくて仕方がなかった。
 母は、私も通った高校の先輩になる。母は高校生の時、全日本のバスケットの監督が遠路はるばる天草の最南端までスカウトにきたけれど、母は思ったより身長が低かったようで、最終的に全日本のバスケット選手になれなかったのだそう。身長が足りていたら、母は、全日本のバスケットチームでポインターガードとして活躍していたかもしれない。ただ、母が全日本のバスケット選手になっていたら、私はこの世に存在していなかったかもしれない…。なんてとことを思うとすごく尊い気持ちになる。 母は高校卒業後、関西方面で家政婦さんをしていたが祖母に呼び戻されて地元に戻ったのだとか。

 父が足が速かったのはホントの話で、近所のおばさんたちに耳が痛くなるくらい聞いていた。そんな父の子どもだから、私も身体能力が高いだろうと思っていた人たちもいたようだが、私はそんなに身体能力が高いワケでもなく、足も遅いほうだった。

「父ちゃんは足が速かったとにねー。なんで似らんやったとかねー」

なんてことも言われて育った。元々負けず嫌いだっただけに、子ども心に傷ついていたし、悔しかったことが思い出される。そして、一つ下の弟は、お目めぱっちりで睫毛が長かったのに対し、私はお顔がパンパンでまん丸。睫毛なんて少なくて短かかった。生れたばかりの頃はパッチリ二重だったのが、いつの間にか一重になってしまっていた。幼い頃から弟とは容姿のことで比較されて育った。しかも、弟は私と違って頭もよかったのだ…。
 そんな状況が土台となっている状況で、勘違いや思い込みや刷り込みを経て、私という個体に育ってしまったワケである。
 10歳の壁を越えるまでは、天真爛漫で鈍感な私でも十分楽しく過ごせていたし学校が好きだった。同級生のことも嫌いな子とかそんなにいなかった。 高学年になり、校長が変わったり、5・6年生の時の担任の関わり方が原因で、私はどんどん主体性をなくしはじめたように思う。それに加え思春期になったことで同級生の子たちとの価値観の違いがどんどん大きくなっていった。みんなの話についていくのがやっとだったし苦しんでいた。
 それでも、同級生なのだから、みんなと仲良くしなければいけないということが、人と人の間でどんな風に立ち振る舞う方法がわからず、真に受ける体質だったこともあり、ネガティブな自分を受け入れられずにいた。そしてどんどんそんな自分が嫌いになっていった。
 歪んだ人格形成を隠すように、よい子な自分の仮面をつけたり、真面目で良い子だと言われることが嫌で、そんな自分を今度は隠すように悪い子ちゃんになってみたりして、どんどん、私は歪んでいった。
 そして、小学校の頃、自分の名前にどんな意味が込められているのかを調べたことで、私はできちゃった結婚で生まれたことを知ることとなった。それを両親に聞けないまま、自分勝手に大きな悩みにしてしまった。

『私は、本当に望まれて生れてきたワケではないんじゃないだろうか…』

そんなことが頭の中にふと浮かぶようになった。ただ、それ以上深く考えないようにして、両親に聞いてみればよかったけれど、そういった話を両親とはしたことがなく、又、聞いてはいけないと思ってモヤモヤしていた時期もある。
 大人になった今、その当時を振り返ってみると、精神面や成育歴だけでない、身体の状態が影響しているようにも思う。
 私は、小5の冬に生理がはじまった。現在ではPMSの話がよく聞かれるようになったが、そういった情報は保健の先生くらいからしか話は聞けなかったし、PMSという言葉すらなかった。だから、PMSで腹痛や頭痛又はうつっぽくなるといった症状は〝ぜんぶ生理のせい〟だけれども病気じゃないから…的な括りで片付けられていたそんな時代でもあった。まぁド田舎っていうのもあるとは思う。だから、私の場合には、頭痛や腹痛に悩まされることはなく、どんなことがあっても定期的にきちんと生理が順調に訪れていたのだけども、もしかしたら、すでにそんな時からホルモンバランスが崩れはじめていたか、ホルモンの影響をうけていたことでメンタルが左右されていたのかもしれない…なんて思うと、その頃あたりから、未病域の身体症状を感じていたのでとても腑に落ちるのだ。
 しかも私は発達障害がある。そして、いつから穴が空いていたのかはわからないが、私の脳下垂体には4ミリ程度の穴が空いている。脳下垂体は様々なホルモンを分泌している器官。その脳下垂体に穴があいていることがわかったのが40歳を越えてから。たった4ミリだがされど4ミリ。もしかしたら、それらが起因となっていて、日常生活のイザコザを受け止めすぎたことがあいまって病んでいったのかもしれない。

 身体的な問題がわからない状況で、すべてがメンタルの弱さや自分に甘いということで片付けられてしまっていたことに違和感を感じながらも、自分が弱い人間だということやできない自分に対して〝罪悪感〟も感じていたのだろうと思う。 それらが、メンタル破壊の〝沼〟への入口となり、複雑な精神構造になってしまったのだろうと思う。
 望まれて生れたワケじゃなかったかもしれない…案件を感じていたことがこんがらがり、〝いっそのこと橋の下で拾われた子だったらよかったのに…〟なんて本気で思っていたことがある。
 それでも、両親の性格や体質などを実はよく引き継いでいて似ているのだが、望まれて生れてきたのではなく、仕方なく生むしかなかったのではないか…といったことを抱えたまま、しかも、その疑問を親に聞くことができなかったことが負の連鎖の土台にもなってしまっていたようだ。
 それに気がついたのは数年前になるのだが、それらをどこかの時点で解消しないまま蓋をしていまったことで、自身を雁字搦めにしていたようだ。このことについては、ざざっと成育歴②ー思春期編ーで詳しく触れたいと思う。
 ざざっとになるが、私という個体が生まれる土台は、両親や祖父母が出会ったことで、私はこの世に生まれることができたのだが、もし、父や母それぞれが国体選手になったり、全日本のバスケット選手になっていたら、私は生れてなかったかもしれない。そんなことを想像すると、人の人生は、ちょっとしたことで大きく変わってしまうものだなぁとシミジミ思う。だからこそ、私は30年近く自分自身を見失い彷徨うような生き方をしてしまうことになった。
 それでも、なんとかまだ自分が身体が動かせる中年の時期にこうして気がつき気持ちの整理ができ、自分自身でつくった心の迷路から脱出できたのだから、とりあえず人生の最終列車にノリオクレテはいないと思われる。いや、まだわからないけれど…。

私降臨

 私が生まれ育った場所は熊本県の最南端の天草諸島。天草出身の著名人はいろいろいらっしゃるが、全国的にも知られている人といえば〝WANIMA〟や〝小山薫陶氏〟の出身地でもある。大きな括りにすると私の出身地でもある。私の場合には、更に南下した、信号機のない小さな海辺のド田舎で生まれた。
 そんな田舎町だが、著名人が一人だけ存在する。熊本県内初の大関となった〝栃光関〟だ。地元の中学の大先輩にあたる。 それと、朝の連続テレビ小説「藍より蒼く」のロケ地で撮影が行われたこともある。
 その朝ドラが終わった数か月後(今から47年前)の七夕の前々日、陣痛がはじまりなかなか生まれることなく丸1日かかったが、私は無事産声をあげることができた。 ただ、最終的に吸引だったか鉗子で頭を引っ張り出され仮死状態で産まれることとなったが、処置をしたらすぐ産声を出し大事にいたらなかったらしい。
 そんな産まれたての我が子をみた父は「猿のようだ」といって、大変な思いをして産んだ母を泣かせのだとか。(我が父ながらホント酷いな…)
 どちらかといえば、私は、大人になるまで父親のほうが好きだった。でも、年を重ね自分が親になってから、実は酷い父親だったことに気がついたのだけれど…。よく母は離婚せずにいられたなぁと感心するようなこともあったくらいだからだ。それでも、私や弟は叩かれて育ったわけでもなく、父は父なりに親として接してくれていたと思う。

 赤ちゃん時代の私は、良く寝て良く食べて良く泣く子だったそう。発達は遅れてはいなかったが、歩きはじめるのが若干遅かったようだ。 私を産んで間もなく下に弟ができたことで、母は授乳を途中でやめなければいけなかった。 それが原因になるのかはわからないが、私は指しゃぶりをしていた。それは自分でもなんとなく覚えている。幼い頃から絵を描いたりすることが好きでハサミも使っていたらしい。今でも絵を描くことは好きだし、物作りも好きだ。でも微細運動はそんなに得意なほうではない。
 私は1歳代で保育園へ通園していた。まだ小さいのに保育所に預ける人は当時いなかったそうで母は先駆者だった。だから、小さなワタシを保育園へ預けている母に対して、心内ことを言う人たちもいた模様。
 よその人たちの心配をよそに、私は人見知りをほぼしない子だったので保育園にいくことは嫌じゃなかった。その当時、未満児の子どもがほぼいない状況だったので、私は年長のお兄さんやお姉さんたちと同じ部屋で過ごしていた。小さかったこともあり、先生やお兄さんやお姉さんたちに可愛がってもらっていたもよう。その時のことはほとんど覚えていないのだが、お昼ねの時は指しゃぶりをして、おばさん先生の二の腕をタプタプしながら寝ていたことはしっかり覚えている(笑) (女の子なのにおっぱい星人みたいなものだよな…。)
 そんな私をみかねてでもあるのか、うちの親は、指しゃぶりを治すために〝カラスウリ〟の中味を私の親指に塗ってなおしたらしい。相当苦かったのか一発で指しゃぶりをしなくなったらしい。それは、私がちょっと大きくなったくらいの時に教えてもらった。
 そのせいになるからなのか、大人になるまで苦いものがすごく苦手だった。両親が私のためを思った愛(エゴ)からの恩恵だったのだろうけれど、超絶迷惑極まりない。おかげで苦い薬もオブラートに包まないと飲めなくなってしまったんじゃないかと思う。それくらい苦いものが苦手だった時期がある。
 20歳をすぎた頃あたりから、さんまの血合いの部分やお腹の部分も食べられるようになり、今では苦い物が苦手ではなくなったので、ゴーヤチャンプルが楽しめるようになったけれども、それは老いってやつでもあるのだろうか…。 それにくわえ、苦い物が苦手だっただけではなく、薬がとても苦手で飲んだほうが良いことはわかっていても、粉薬はオブラートに包まないと飲めなかった。(言葉や感情はオブラートに包めないのにね…くすん。)
 それとは別の話で、私は赤ちゃん時代に疳の虫があったようで、近所に住む親戚の姉が私の子守りをしている時によく噛まれていたそうだ。 夜泣きするタイプではなかったけれど、思い通りにならないときはひどい癇癪を起し泣き叫んでいた。それは自分でもよく覚えている。
 実は私、ケーキなどでよく使われている、あの銀色の粒々がすごく苦手だ。アレがケーキにのっているだけでテンションが下がってしまっていた。でも、あえて、それをいうことはなかった。食べなければいいだけだし、それがのっているケーキを選ばなければいいだけだからだ。 ただ、なぜ、そんなに苦手だったのか大人になってもずっとわからず、謎に思っていた。
 発達障害の診断が確定したことで、幼少期の頃の自分を振り返っていた時に、幼い頃からお世話になっていた親戚の姉と昔話をしている中で『ひやきようがん』を飲まされていたことを姉が教えてくれ「それだ!」と思うことになった。
 苦手な意味がわかったからといって、それ以後、あの銀色の粒々を好きになれたのか…といわれたら好きではないし気持ちは変わっていない。苦手なものは苦手だ。たとえ『ひやきようがん』の味ではなかったとしても…。そういった体験をしたからか、私は苦い薬だけじゃなく飲み薬全般が苦手だった。特に粉薬と水薬。小学校低学年くらいまでは、かかりつけの先生に

「先生甘いお薬にしてください。それか、錠剤がいいです」

と言っていたことを覚えている。
 おそらく服薬するにあたっての〝トラウマ〟となった思い出が原因だと思われる。でも、そのトラウマな記憶が、実は、脳内で人や場所がすり替わって記録されていたことがわかってから、自分の記憶が〝当てにならないこともある〟ということは心に留めるようになった。 だからこそ、すり替わってしまった記憶を勘違いしたままではいけないと思い、昔のことを思い出した時には、母や親せきの姉等に聞くようになった。

 私は人見知りをあまりしないタイプだったこともあり、母の実家や親せきの家によくお泊りすることがあったからなのか、古い記憶の背景や人物がすり替わっていることが多々あるような気がしている。
 それは私だけが特別というワケではなさそうだが、他者と共通している情報を照らし合わせるという作業は、私のような記憶がすり替わってしまったことから巻き起こっている不具合を抱えているタイプの人には、殊更、大切な作業のように思う。だからこそ、自分の中だけで終わらせてしまって負の連鎖が起きている人は得にそう思う。そうしたことから、薬に纏わるトラウマ話を勘違いしていた自分に気がつくことになったのだが、実は数年前のことになる。
 漢方薬を飲み始めたことで、粉薬をのむことを躊躇うことなく飲めるようになった。それまでは中々難しく無理をして飲んでいた。というか錠剤かカプセルにしてもらっていた。 甘いタイプの水薬さえ、飲もうとすると吐き気がするくらい苦手だった。
 リスパダール内用液も苦手だったが、鎮静作用を自分で感じていたからこそ飲めた。自分にとって必要な時は苦手だとしても飲めるのだ。それでも、栄養ドリンクなどは今でも飲めない。オロナミンCをやっと飲めるくらい。実はコーラも苦手だ。なぜなら、コーラを飲んだ後の後味というか残り香が、私にとってオキシドールと同じ匂いを感じるからだ。それくらい薬剤が苦手だ。おそらく、感覚過敏があるからだとも思うが、感覚過敏とは別件で、ネガティブなフラッシュバックが起きる原因でもあったからだ。
 その原因になった記憶はたった数分にも満たないのワンシーンで、幼い頃、薬を飲もうとしない私を濁った緑色の冷蔵庫に、誰かに身体を押さえつけて水薬を飲まされた記憶として残っている。 薬を飲むたびにそのフラッシュバックが起きていた。 それは、もしかしたら、現実でもなくたんなる『夢』だったのかもしれない。ただ、その記憶がフラッシュバックされてしまうこともあり薬を飲むことが嫌なフラッシュバックのトリガーとなるので更に苦手になってしまったと思われる。
 ただ、服薬に関するトラウマ話を母に話してみたら、我が家の冷蔵庫の色はそんな色じゃなかったことがわかった。どこか別の場所だったようだ。しかも、母は〝身に覚えがない〟といっていた。 いや、母だって覚えていないのかもしれないのだが、とりあえず、記憶はどこかで摩りかわったか〝夢〟を現実の記録として残ってしまっているのかもしれないことがわかってからは、自身に記憶されていた情報は当てにならない。いわゆるフラッシュバックネタはあてにならない…と思うようになり、事実確認は大切なことだとシミジミ感じることになった。
 とりあえず事実とは多少違うこともあったことがわかったことで、嫌なフラッシュバックではなくなり、それらが起きても『大丈夫』を経験したことで、服薬について、すり替わった動画が脳内から消えたわけではないが、苦手だった服薬が嫌ではなくなり、お陰様でオブラートに包むことなく苦いお薬も普通に飲めるようになったのだが、お口からでてくるアレコレをオブラートに包めないままな性格は今だ健在している。(だめぢゃん)



 


 


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