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【小説】コトノハ

 1

 言葉という奴は時として、本当に無力なものだと思う。
 困り果てている人に近づいてきて、『どれどれ、私がズバリ言い当てて差し上げましょう』などと遠慮なしに嘯いてくる。まるで胡散臭い占い師みたいに。
 ドンピシャに言い当てられたら、そうそうまさにその通りですお見事パチパチと拍手喝采して差し上げたくもなるだろう。けれども、だ。満面ドヤ顔全開で言い放たれたその言葉が、こちらの渇望していたそれに全くと言って良いほどあてはまらなかったとしたら。これじゃない、欲しかったおもちゃはこれじゃないよと駄々をこねる子供の心境、まさにそれに尽きる。
 もちろん、こんな妙な例えができるのは僕が大人だからだ。子供の僕があの時に抱いた感情は、たぶんもっと単純で明快なものだったはずだ。
――おじさん変なこと言ってる。間違ってるのになぁ。
 ことばのおじさん。その人は例え話の中の胡散臭い占い師でも何でもなくて、本当に実在した。その人は、実家の裏山にあった小さな神社の神主だ。一見して得体の知れない仙人みたいな人だった。その人は物知りで、僕が知らない物事をいつも真新しい言葉で表現してくれた。だから、ことばのおじさん。そう勝手に呼んでいた。
 ある時僕は、自分が体験した不可思議な出来事をことばのおじさんに話して聞かせた。子供の頭ではおよそ理解することのできない、夢の中の出来事のような話を。だから僕は最初、「へんなゆめをみたんだけどね」と言って自信なさげに話し始めたのを覚えている。
 ことばのおじさんは、いつものように人の話を聞いているのかいないのか、斜め上の夕焼け空をぼんやりと眺めながら煙草をふかしていた。今思えば、神主と煙草、違和感がありすぎる組み合わせだけれど、子供の僕はそれ美味しいのかな、なんてことを思いながら話していた。
 長くてまとまりのない、子供の他愛のない夢の話を聞き終えたおじさん。彼はそのすぐあとで驚くような反応を示した。それは子供の僕が、「どうしたの?」と慌ててしまうほどだった。おじさんは僕の目の前で声を上げて泣き出したのだ。いわゆる、号泣というやつだ。
 傍から見たら、生き別れた息子に再会した父親が、よくぞ無事に育ってくれたと嬉し涙を流している、そんな光景に写っただろう。というのは前向きにとらえた場合で、後ろ向きに見たら、変態に絡まれたいたいけな少年、一歩間違えれば通報騒ぎだったはずで、おじさんの目の前でおろおろするしかなかった僕は、おじさんが鼻をすすりながら言い放った次の言葉に目を丸くした。
「坊主、そりゃ夢の話なんかじゃねぇよ。百人、いや千人、いやいやいや、一億人に一人の人間がさ、一生に一度おがむことが出来るか出来ないか、現し世のそれはそれはありがてぇ現象よ」
 そう豪語したおじさんには、心の底から申し訳なく思っている。
僕はそんなありがたい現象とやらを、人生で二度も目の当たりにしてしまったのだから。

 2

 決して一緒にいるはずのないふたりが、そこにはいた。

 ひぐらしの物悲しい精一杯の鳴き声が不意に聞こえて、少年は目を覚ました。重くたれ下がってくる瞼を手の甲でゴシゴシと擦り、無理矢理に目を開いた。最初に飛び込んできたのは、夕暮れどきの橙色。次第に鮮明になる視界の先には、庭に向かった縁側に腰をかけている大人の背中だった。当然顔が見えないから、それが一体誰なのか分からない。少年が声を掛けようとした時、唐突に視界の端から別の誰かが現れた。
『すごい夕立ち雨でしたねぇ。八百善さんの店先で雨宿り。そうそう、明日は由紀子ちゃんの晴れの日なんだからって言って、八百善さんたら、ほら、こんなに大きな大根。もう重くって』
 ころころと笑うその声と話し方は、少年が良く知っている人物にそっくりだった。けれど何かが決定的に違う。
 その時少年の頭の中には、皺くちゃな顔で優しく笑う大好きな祖母の姿があった。それに目の前にいる祖母に良く似た女性を重ね合わせて、ようやく違和感の原因に行き当った。
 クラスの女の子達がそうするように、時に大袈裟さに身振り手振りを交えて相手に何かを伝えているその人は、祖母よりもだいぶ若かった。けれどどうしても祖母の姿と重なってしまう。このひとはだれ?
『それは随分と難儀だったな』
 低く、力強い男の大人の声がして、少年ははっとして意識を目の前の光景に戻した。
『えぇ、ほんとうに。鰤(ぶり)と一緒に煮つけようと思って、魚屋さんにも寄ってきたんですよ。けれどそれだけじゃあまだ余っちゃうわねぇ。お味噌汁に入れたら、一体全体何人分作れちゃうのかしら』
 今まで少年に薄くなった後頭部ばかりを見せていた男の人が不意に、屈託なく笑う祖母に似た女の人に顔を向けた。夕焼けの逆光で薄墨を引いたようにぼやけていたその輪郭は、少年の祖父に似ていた。
 おかしなことなど何もないとでも言うように、ごく自然に二人の大人のやりとりは続いている。けれど少年の耳には彼らの声はもう何も届いてはいなかった。どうしてどうして?と頭の中は疑問符で埋め尽くされて、危険を察知した心の管制室の面々が右往左往して少年の心をどう制御しようか、緊急会議を開こうと寄せ集まってきていた。
 少年の知る祖父は、治ることのない病に苦しみながら今この時も病院のベッドで目を閉じているはずだった。それから祖母は――。
 祖母は先日、空の上へと旅に出た。悲しいけれど、もうここへは戻ってはこない。そう母親が少年に教えてくれた。
 決して一緒にいるはずのないふたりがそこにいたのだ。少年は考えることをやめた。それが心の管制室が取った最善の策だった。ただただ、その不可思議な光景を見つめ続けた。
『とうとう、明日なんですねぇ。わたしなんだか未だに信じられなくって。由紀子が、嫁いでいくなんて。いつも一緒にいたんですよ。あの子、今でもお母さんお母さんってわたしに甘えてきて』
 淡いピンク色の前掛けの裾を弄ぶ祖母(であると、なぜだか少年はその時自然に受け入れていた)は、少女のようにもじもじとしながらそう言った。俯いていたから、表情までは読み取れない。
 祖父はそれを黙って聞いている。
『あの子、これからしっかりやっていけるのかしら。お父さんだって、いつも言っているじゃあありませんか。由紀子はずぼらだ、自分の部屋も片付けられない、料理なんて不味くて食えたもんじゃあない。それから決まって私が怒られて。お前がきちんと教えないからだって。やっぱりあの子にはまだ早いんじゃ――』
『もうやめなさい。悲しいのは、私も同じだ』
 長年、小学校の校長を勤め上げた祖父は、まるで駄々をこねる生徒をたしなめるように祖母の話を遮った。祖母はそれにはっとして顔を上げて、同じく叱られた生徒がそうするように背中を丸めて祖父を見つめた。
 その祖母の目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
 ひぐらしがまた鳴いた。祖母の代わりに、声を上げて鳴いた。
 祖母は手のひらで涙の筋を拭き取ると、ぎこちない笑みを浮かべながら、
『そうですね、ごめんなさい』
 と言って、縁側に座る祖父の隣に腰掛けた。ふたりして、黙って庭を眺めていた。
 どれくらい、そんな穏やかで、けれどどこか寂しいふたりの時間が流れたのだろう。少年はその間、目を離すことなく彼らの背中を見つめていた。飽きることなく、ずっと。何故だかは分からないけれど、決して彼らの背中から目をそらしてはいけないような、そんな気がしていた。宝物の在り処を探るような、今にもそのしるしみたいなものが現れるような予感があった。
『ああしろ、こうしろと、言うのは簡単だ。君には苦労をかけた』
 沈黙の扉を開いたのは、祖父の方だった。扉が開く音で、祖母は目を丸くして驚いていた。金輪際開かないと思って諦めていた扉をいとも簡単に開いた人間を、あっけにとられた様子で唖然としてながめている、そんな祖母の横顔だった。
『なんです、急に。お父さんも今日はおかしいですよ。君、だなんて。何十年ぶりにきいたのかしら』
 決して祖母を見つめ返すことなく、前を見据えながら祖父は続けた。
『本当のことだ。常日頃思っていたことだ。由紀子を今日まで立派に育て上げたのは私じゃない。君が、由紀子を――』
『そんなこと、あるわけがないじゃありませんか』
 それは少年が初めて耳にする祖母の声音だった。明らかに、祖母は祖父に対して怒りをぶつけていた。さっきと形勢が逆転した。少年は少し緊張した。
『由紀子は、わたしと幸次郎さんの子供です。ふたりで、大事に、育ててきたんです』
 そこで漸く、祖父は祖母を見つめ返した。
 祖父の口元が少しだけほころんだ。
『あ――』
 祖父が何かを呟きかけたその時、どたどたどたっと騒々しく廊下を駆ける足音とともに、勢いよく居間の襖を開けて、無遠慮に縁側のふたりに向かって誰かが早口にまくし立てた。
『もう、こんなところにいた。探しちゃったじゃない!お母さんお母さん、どう、この髪型。明日の披露宴のとき、こんな風に結ってみようと思うんだけど、いい感じじゃない?』
 驚いて振り返るふたり。それにつられて少年も自分の背後を咄嗟に振り仰いだ。
 そこには、腰に両の手の甲を当てて、斜め上から父母を見下ろす若い女性が、ポスターの中のモデルみたいにポーズを決めていた。
 少年にはすぐに分かった。母だ。少し若い気がするけれど、間違いない。これは自分の母だ。いつもと変わらない母の明るく朗らかな様子を目の当たりにすると、少年は今まで見てきた不可思議な出来事からくる理不尽な緊張から解き放たれて、泣き出しそうになった。お母さん!そう叫んで、母の腰に抱き着こうとした。けれど、抱きしめようと伸ばした両手は、母の体をすり抜けてしまい、その結果少年は自分で自分の体を抱きしめてしまった。
 きょとんとして立ちすくむ少年に気付く様子もなく、若い姿の母は縁側に駆け寄った。祖父と祖母と母、三人の話し声や笑い声がどこか遠いところから聞こえてきていた。けれどそのどれもが雑音のように意味を成さずに通り過ぎていく。一体何が起こったのか、少年には理解ができなかった。きっと、大人であっても、誰であっても、その一瞬の出来事を理解することなどできなかっただろう。
 けれど、少年の生きる日常はとてもあっけなく彼のもとに戻ってきた。
「ゆうとー、ゆうとー!ちょっと来てー!冷蔵庫の隙間に百円玉入っちゃったのー。取ってよー」
 さっき耳にしたばかりの、母の声。少年は声のした方へ駆け出していた。ここは自分のいていい世界じゃない。そんな風にはっきりと思えたわけではなかったが、本能がそう訴えていた。ここにいてはいけない。早く戻らないと。
 けれど少年は、襖の目の前で一度後ろを振り返ってしまった。彼らがきっとまだそこにいる。もう一回、見てみたい。怖くはなかった。ずっと、怖くなかったんだ。大好きな人たちが、自分の知っているその人たちとは少しずつ違った姿で、そこにいただけ。
 意を決して、少年は振り返った。
 そこには、誰もいない縁側と、庭があった。ひぐらしの鳴き声だって、聞こえない。
「ちょっと、何やってんの?何その顔。幽霊でも見たーみたいな。お母さんまだ死んでないんだけど」
 このやろ勝手に殺すなと言って、母は少年の頭を両手でくちゃくちゃにした。
 少年は、母のお腹に顔を埋めて泣いた。
 怖くなんかないよ。怖くなんかなかったもん。

『だけど、今はもう絶対に戻ってくることのない幸せな人々や場所や時間のことを想ったら、心の底から這い上がってくるような悲しみに身悶えして、息をつまらせていただけなんだ』
 
 そんな言葉を掬い取るには、少年はあまりに幼すぎて、だからただただ、泣きじゃくることしかできなかった。

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