自立に向けて
今日は、ひとつ、自分で意図を立て、それを実行しました。
それは、あることを「しない」ということ。
恐る恐る、緊張する体や感情の反応も感じながらも、静かな意図の場所と、「私は私」ということを思い出しながら、行いました。
それは、自分で自分の人生を決めて動かす、自立への大きな一歩となりました。
長い間、私がいた場所は、あらゆる人に権威者転移をかけている子ども意識の次元でした。
その場所に、本当の相手はいません。
子どもメガネをかけているから、本当のいまここの真実を見ることができません。
私も「こども」になってしまっています。
その場所で、私は相手に人生を委ね、従い、無力になっていました。
相手の承認、評価、愛を求めて、判断基準を相手に置いていました。
嫌われたくなくて、本当の自分を隠し、いい子になろうとしていました。
決められなくて、欲張って、不安で、保険をかけるようなことをしていました。
自分の思ったことを、自分で決めて、行動することが、権威者の前では力を失いました。
私の人生
私はどう生きるか?
私は、どう感じ、どう考え、どうしていきたいか。
失敗していい。
揺れていい。
後悔してもいい。
ただ、決めるときは新しい場所。
動くときは、新しい場所ですると決めました。
それは、私が私の責任を取る次元です。
私が、私の車の運転席に座っています。
私が、小さな私の手を引き、導く人になる場所です。
私はそこで、私にとっての最善はなにか、私がよく私を観察し、判断します。
私が、私自身の権威、愛される権威、聖なる権威になるのです。
外側に権威を置き、立ち位置わからずさまよっていた、小さな私。
今ようやく、私のほうを向いてくれているのを感じています。
外の誰かではなく、私について行こう、と思っているのです。
まだまだ頼りなく、反応は起こるし、学ぶべきこともたくさんありますが
大切なのはそこではないのかもしれません。
完璧でなくていい、私という人間を知ろうとしてくれる、私を観てくれる、私に本気で関わってくれる、そんな在り方が、小さな私が私に求めていることではないかと思います。
シュタイナー教育では、「9才」という年齢の子どもに起こることを「ルビコン川を渡る」と表現することがあります。
私は、私。
私とお母さんは違う人間。
私とお父さんも違う人間。
私は、私というひとりの人間。
そのことに気づいて、目覚めていく、世界の見方が変わっていく年齢です。
やっと私、ルビコン川を越えられたかも?
9才になれたかも?
目を覚ますことができたかも?
シュタイナー教育については、また別の場所で触れていきたいと思っています。
夜、パートナーに、私はいま清々しい気持ちだと伝えると
長渕剛がはじまりました。
私たちはミュージカル調で歌いました。
乾杯~
今君は人生の大きな大きな舞台に立ち
遥か長い道のりを歩き始めた
君に幸せあれ~
可笑しいのと、でもちょっと本気で感動、じんわり響きます。
読んでくれて、ありがとうございます^^