「送る」と「贈る」
実家から、荷物が届きました。
「新米ができたから、送ろうか?」と連絡があり
他に、ゼリーやジュース、おまんじゅうやコーヒー、タオルも入っていました。
リクエストした地元のお味噌も入っていました。
5月ごろからパートナーと一緒に暮らすようになり、両親にも会ってほしいと思い、9月に実家に帰ることを検討していましたが
そのことを母に伝えると、とても会いたいけれど、お父さんの仕事の関係でコロナが落ち着かない今は迎えるのが難しい状況とのこと。
帰省は見送ることにしました。
母は母
私は私
私と母は違う人間
そのことがスッと降りてきた出来事でもありました。
私はてっきり、「いいよ!」と喜んで、楽しみにしてくれると思っていた(期待していた)ので
予想外の母の答えに、しばらく感情的に反応する部分もありましたが
今はまたもう少し落ち着いて捉えられています。
一人一人が、違う考えをもち、それぞれの世界をもっている。
それは、どちらが良い・悪い、正解・不正解、ではなく
ただ、そうであるだけ。ということ。
また、母の本当の想いは、見える・聞こえる範囲にはきれいに出ていないかもしれない、とも思います。
歪んでいたり、隠れていたり、私も同じです。
見たいように見てしまっていることも。
母の無条件の愛は、どこかで知っているからだな、、と思います。
考えや価値観が違っても、違わなくても、愛はかわらずある。
愛とは、足もとの大地のようなものではないかと、いま感じています。
私たちは当たり前にその上を歩いているんだなと。
当たり前すぎて、忘れちゃうのかもしれません。
18才で地元を離れてから、母からはたくさんの荷物が送られています。
母は私に何かを送るのが喜びなようでした。
ほしいものがあったら送って、というので、色んなものをリクエストしてきました。
何か送ろうか、他にほしいものはないかと聞く母に、荷物のやり取りがあるごとに、私は色んなことを感じていました。
こっちで買えるものもあるし、わざわざ送料も掛けて送らなくても。
もったいない気がする。
荷物を受け取るときは、いつも罪悪感をセットで感じていました。
なんか悪い気がする。もやもやする。
怒りのようなものもある気がします。
親からの荷物には、それはたくさんのプロセスが詰まっているんだなと思います。
問題は
幼いころから繰り返してきた
愛の誤解
受けとることの誤解
母との間の、不健康なバウンダリー
私は、愛することも、受け取ることも、その方法を知らず
今もそのまま、知らないで誤解している場所があるんだな、と思います。
もっともっと、自分にも人にも優しい、愛の場所があるんだろうなと思います。
今はまだぼんやりしていますが。
今日、届いた荷物の箱を開けながら、自分の中で色んな声がしました。
ありがとう、伝えよう、いや、どうしよう、あとにしよう、電話はいやだな、、、
このなかに、いろんな感情が絡んでいるのを感じました。
ハイヤーを選ぶってどういうことかと問いかけながら
深呼吸をして
スローダウンして
メールで連絡することにしました。
バウンダリーを意識しながら。
〈お母さん、荷物届いたよ、おくってくれてありがとう...〉
〈送ってくれて〉に変換しようとして、あ、と思いました。
変換候補に、「送って」と「贈って」の字が見えました。
お母さんは「送って」くれてるだけじゃなくて
「贈って」くれてる
お母さんからの荷物は、「送付物」ではなくて「贈り物」だったと思ったんです。
ただ、物が送られているのではなく、お母さんの、私への愛が贈られているんだな、と。
そのことを、罪悪感に入らずに、居心地の良い場所で感じました。
私は今まで、荷物の外側しか、受け取れなかったんだなと思います。
というよりも、この愛をどう受け取り、自分の中でどう持てばいいかわからず、見るのが怖かった、のほうが真実かもしれません。
これは自分自身に対しても、同じかもしれません。
何より大切なのが、「感じる」ということを自分に許していくことなのだと思いました。
まだまだ見ていく必要があり、入り口も入り口ですが
私は愛だけを受け取ろう
優しく、優しく、受け取ろう
ノージャッジの愛の中で
これをしてみたいと思います。
母には
〈贈ってくれてありがとう〉
でメールしてみました。(^_^)
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