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主体と客体は、幻想...

秋は、お月様を愛でる機会が多い季節ですね。
日に日に大きくなったり小さく見えたり、28日周期で変化をくり返す月の
満ち欠けは、わたしたちのこころを映しているかのようです。
荘子「胡蝶の夢」にもありますように、自分が蝶になったのか、夢か幻か?
見方が変われば主語が替わります…

しかし、冷静に考えてみると、わたしたちは、それぞれが、それぞれの経験
を通して積み重ねて来た記憶にもとづく概念のベールを透かして入って来る
月の光を視床下部で見ていて、ほんとうは、誰ひとりとして他者とぴったり
共通の現実世界などは見ていないことがわかります。
つまり、客体など存在していないのです。
「わたしが」も感情を排した「世間が」というで視点も、しょせんは自分が
とらえた映像のようなもので、客観なんてあり得ない。
その証拠に、賛否両論が尽きることはなく、「絶対」なんて存在しないこと
を実感しますが、日に日に、時々に認識を変える、変化して固定しない姿こ
そが絶対的普遍と呼ぶものなのかも知れません。

スーパームーンと呼ばれる、目に見えて大きなお月様を見上げる時、幼い頃
から幾度もいつでも見上げていたお月様なのに、その大きさに感嘆します。
わたしたちが抱いている当たり前の常識から外れると、ドキッとするのです。
月の光は、地球の影がお日様の光を遮ったもので、月そのものは何も変化し
ていないと理解していても、毎回そうなってしまいます。
そう、大脳前頭葉を通してわかる理解なんて、そんなもの、そんな程度のわ
かりかたに過ぎません。
「知・(浅い)情・意」を超えた深いところにしか本体=真情が存在していな
いからです。

しみじみ、そこはかとなく…不意に去来する感情は、言葉では表せない、
しかし、確かに存在する感覚です。
では、その湧き出でてくる源は何処なのか?
その視点に立った時、わたしたちをわたしたちならしめている源がこころ
の奥深くに在るような気がして来ます。
しかし、言葉でいい表そうとすると出来ない、何か不確かな、つかめない
もの…一面只ひとつ、多面個々別々に見える大海のような意識の源です。

ルネ デカルトは、疑いを除いて除いたその先の理性で論理的に考察すべ
きといいました。玉ねぎの皮をむき、実を一枚ずつはかした先に残ったも
のは何だったのでしょうか?
もし、客観性がないとすれば、疑いは、あくまで自分自身の理性から発す
るものに過ぎないことがわかります。
角度を変えてみても結果は変わりません。

ものごとの本質は、主体と客体を反転させてみてもちがいがないはずです。
ちがいがないからこそ真理で、万物を統べる法則性にもとづいています。
太陽は東から登り西に沈みますが、何故かと問われても答えられるひとはい
ません。しかし、それは、歴然とした事実なのです。
わたしたちが見上げる反対側から、お月様は、何を見ているのでしょう?
たぶん、擬人化しない、ただ、あるがままに、天の運行に従っておられる
のではないかと想像しています…


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