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やさしさと思いやり

晴れて暖かい昼間は小春日和(冬の季語)にも納得もする。絶賛真冬開催中だが桜の開花に備えるカウントダウンがすでにはじまっているだろう。さて、カレンダーを見てハッとした。法人の設立記念日はもれなく立春にしてあるので、うち1つの移転登記をするのに、2/4を意識していたが、あー、今年はちがうのか、うっかりするところだった!カレンダーをあまり見ないので、あれっ、また、連休なのかい?が頻発する。郵便局の前まで行って、へつ?と立ち尽くしたこともある。

さて、きのうの「情緒」ではないが、わたしたちは日頃、何となく自分なりのニュアンスで言葉を使っているので、やさしさも思いやりも同じようにごった煮にしているのでは、と思う。ちょっと冷静に、しかし、これもわたしの感覚に過ぎないが、やさしいは、主にひとの性格、性分といわれるような特性や性質を表していると思う。思いやりは、遣りと書くくらいだから、誰かに何かをするというように相手が存在する。花でも虫でも鳥でも…たとえ生きものに見えない鉱物でも自然界の空や雲や風にでも。だから、ケガをした犬ネコの介抱をししているひとを見かけたら、やさしい思いやりのあるひととか思いやりを感じる、あなたはやさしいねとかいったりするだろう。2つ並列に使うのだから別々のもの。そういうことをいちいち考えないから、昭和→平成→令和と時代を経て言葉の意味が変わってしまうことがある。そのうえ、まちがった方が採用されてそのうちにとって代わられてしまうこともある。youtubeのサムネでよく見かける、◯◯な末路などがソレになりそう。タイトルにつられて中身を見るが、何ら怖いことも悲惨なことにもならず、何処が末路なのか…それはただの結果でしょ、と薪を見ながらそんな暇なことを考えていると、静けさを切り裂く選挙カーと救急車がひっきりなしに通る。
こんな時、選挙カーにはイラつくが、救急車がドップラー効果で、近づいて遠ざかる1分ほどの間に、早く助かりますように、と一瞬のうちに願うようになって10年くらい経つ。母の救急搬送で、はじめて車内に乗り込んだ日のことを思い出すからだ。同じ一瞬でもまったくちがう。

わたしは、思いやりと聞くと、顔回の、其れ恕(じょ)か!のエピソードをつい思い出す。顔回が孔子先生に、大切なのはどんなこと?と問うて、自分が嫌だと思うことはひとにしてはいけないよ、と教わったアレ。この恕が日本語に直すと思いやりというわけで、相手がいる。だから、思いやりのあるひとはやさしいひとなのだ。相手を慮るには経験も必要。知らない、意識したこともないのに、とっさに形になっては現れない。神道の言葉に、知らないで侵した罪でも罪は罪とある。そんなことはしない方がいいと知らない、意識しないから宜しくないと思わずにやってしまう。神様は、わざわざバチを当てたりしないが、知らない無知の連鎖が、次第にそのひとの性質そのものになったりもする。考えると怖い。また、他人を思いやるこころに余裕のあるひとは、そのうちに良いことが積もって、積善の家には余計ありってことにもなるだろう。
言葉遊びのようだが、大切なこと。

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